37 : マクロな世界
退職が決まった時陽介に、“貯金もあるし、再就職する前に旅行にでも行こうかと思う”と、俺は言った。
でも結局、俺は旅行には行かなかった。
退職した当初は行く気だったのだけれど、パンフレットを集めて内容を細かく吟味している内に、なんだかこれってどうなんだろう?と感じ始めてしまったのだ。
30歳を過ぎた男が一人で、失恋の痛手を癒す目的で旅にでる ―― なんて、どう好意的に考えても滑稽だ。
それに旅行に出て気分転換をしようとした所で何も変わらないに決まっていると、出かける前から予測できてしまい、虚しくなったのもあった。
だから俺は集めたパンフレットを全て捨て、代わりに地球儀を買ってきた。
そして日本大陸の部分を手前にした地球儀をテレビの上に据え、日がな一日、それを眺めていた。
その縮小版の地球を見ているうちに、やがて、自分が今いる環境が実に奇妙なものに思えて来た。
俺はあの球体の上で、身をよじったなめくじみたいにひねくれた形で浮かんでいる ―― 地球儀で見る日本大陸は、ユーラシア大陸やらアフリカ大陸と比べると、ちょっと仮置きされて浮かんでいるものみたいに見えた ―― 土地の上にいる、ミクロの中のマクロみたいな存在でしかないのだ。
そのミクロでマクロな俺が数センチばかり上だか下だかに動いた所で、何も変わらなくても仕方がない。
何らおかしい事じゃないし、そんなのは当然の事であるとさえ思えた。
安心した俺は久しぶりに空腹を覚えたので立ち上がり、キッチンに向かった。
そしてお鍋いっぱいにお湯を沸かしてスパゲティを茹でながら、とりだしたボウルにぽん酢を入れ、お醤油を入れて味を整え、そこに包丁で少したたいた納豆と千切りにしたしそ、半分に切った貝割れ大根としらすをひとつかみ、種をとって適当な大きさに切ったトマトを入れる。
そしてちょうど茹であがったスパゲティを入れて混ぜる。
これは俺が気に入ってよく行っているイタリアン・レストランの人気メニューを見よう見まねで作ってみたものだった。
店ではトマトではなくオレンジが入っているのだが、最近ろくに買い物に行っていなかったのでオレンジが冷蔵庫になかったのだ。
でもまぁ、とにかく、自発的に何かを食べようと思えるようになっただけでも大躍進だった。
最近はどうにも、食欲がなくて困っていたところだったのだ。
完成した昼食を食べながら、俺は再び新たな気持ちでTVの上の地球儀を眺めた。
そして冷たいパスタの昼食を食べ終えた頃に、心は決まっていた。
「北海道ぉ!?」
と、陽介は裏返った声で叫んだ。
「うん。完全に心機一転出来そうだろ?」
と、俺は笑いながら言った。
「いや・・・、ちょっと待てよ、北海道って・・・、心機一転過ぎだろ。どうしてそこまで発想が飛ぶんだ」
「ほら、札幌に母さんの妹が住んでるじゃないか、だから、馴染みがあるっていうかさ」
「あのな・・・、今更言いたくはねぇけど、お前を引き取ろうとすらしなかった親戚じゃねぇか。馴染みもクソもねぇだろ」
「あー・・・、まぁ、それはそうだし、今回も特に頼ろうって気もないんだけどね。
でも、何となくそういう人がいないよりいる方が、気持ち的に心強いじゃないか」
「・・・何だそれ、意味分かんねぇ・・・。
ところで・・・お前まさか、もう行くつもりなのか?」
俺が足元に置いた中くらいの鞄を見下ろして、陽介が訊いた。
うん、と俺は頷く。
「借りていたアパートの更新月が丁度今月なんだよ。すぐ引き払うのが分かってるのに2年分の更新料払うの馬鹿馬鹿しいから」
「・・・それは・・・、まぁ、そうか・・・」
「それと陽介の家には、さっき挨拶に行ってきた。時々帰ってきなさいって言われて・・・もちろんそのつもりだから。それに東京から札幌って飛行機で1時間ちょっとなんだよ。だから陽介たちも休みがとれたら、遊びに来て」
「・・・、ああ・・・」
「・・・で、あのさ・・・陽介にちょっと、お願いがあるんだけど」
「なに」
「かなり嫌な役目なんだけど・・・」
「どんな事でもいい。何でも言え」
勢い込んで言う陽介を見て俺は身体を屈め、足元に置いた鞄のポケットから2つの封筒を取り出す。
「香椎先生の結婚の件が全部上手く行ったら、これ、副病院長と香椎先生に返しておいて欲しいんだ」
「これって、お前・・・」
「そう、お金」
と、俺は言う。
「本当は俺から返したいんだけど・・・。今返しても受け取って貰えないだろうし、その後も俺が直接病院に行く訳には行かないだろ。
かと言って病院に俺の名前で送ったら何事かと思われそうだし・・・きちんと副病院長や香椎先生の手に届くとは限らないから。
こんな事陽介に頼むなんて本当に申し訳ないんだけど、他に頼める人が思いつかなくて」
「預かっておくのはいいけど・・・、でも、この、香椎にも、って・・・。まさか、あいつも・・・?」
じっと俺を見詰めて、陽介が聞く。
「・・・うん、最後に会った時、怒らせちゃって」
軽く聞こえるように努力をしながら、俺は答える。
それを聞いた陽介は色が白くなる位に唇を噛みながら手にした封筒を見下ろし、それから数分間、黙っていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げた陽介は、
「お前は馬鹿だよ・・・、本当に・・・、・・・」
と、呟くように、言った。
実にその通りだと、俺も思った。