Fight C Luv

5 : ギリギリの勇気

 その夜殆ど眠れなかった(というか、眠らせて貰えなかった)俺は、あくる日の夕方過ぎにはもう完全に、ナチュラル・ハイのような状態になっていた。
 朝のうちは、こんなことじゃ駄目だ、俺・・・。と危機感を覚えるほどに眠かったのだけれど、お昼を2時間ほど過ぎた頃になるとそういうのが綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。
 仕事は怖い位スムーズに進む上、どんなイレギュラーな事態が起こっても“これしかない!”というような的確な対応が反射的に出て来る状態で、頭の芯がギラギラしている気がした。

 出勤して来る途中は、
「俺の勤務形態を知ってるくせに寝かせてくれないんだからな、陽介は・・・自分は夜勤明けで休みだからいいかも知れないけど、少しは人のことも考えて欲しいよ、全く・・・」
 などと、内心文句たらたらだったのが、今ではこのまま永遠に働き続けられる気さえした。

 そんな訳で珍しく定時にほぼ近い、午後7時前に鼻歌さえ歌いだしそうな勢いで ―― もちろん本当に歌ったりはしない。それ位の自制心はある。念の為 ―― 地下にあるロッカー・ルームに向かっていた俺は、前から香椎先生が歩いて来るのに気付き、つかえる様に足を止めてしまう。

 以前から彼の事を、他の同僚と同じように見ているとは思っていなかった。
 でも陽介に恋愛でしかあり得ない、などと断言されてしまうと、妙に意識してしまう。
 昨日まで自分が彼に対して、どうして他の人にするような挨拶を出来ていたのか、さっぱり分からなくなる。

 普段はただ会釈をしてすれ違うだけなのに ―― 多分俺が足を止めたからなんだろうけど ―― 香椎先生はそんな日に限って俺の前で立ち止まった。
 そして、
「今、帰り?」
 と、訊いた。
「あ、はい・・・、香椎先生は、これからですか?」
「いやいや、一昨日の深夜に呼び出されて、今まで働かされてたんだ。今日はもう何が起きても帰らせてもらう」
「あ、そうだったんですか・・・、いつも大変ですね・・・」
 と、言いながら俺は、自分で自分を殴り飛ばしたくなってくる。

 どうしてもっと印象に残るような、気の利いた事が言えないのだろう?
 ついさっきまでの冴え渡りっぷりは、どこへいったというのか。
 あれはこういう時にこそ、必要な力だというのに・・・
“いつも大変ですね”って、そんなの一緒に働いていれば一目瞭然だ。
 医療機関の内情を知らない人間じゃあるまいし、何を言ってるんだ俺は?
 自分が逆の立場だったなら、そんなの見てて分からないのか!?と、激しく突っ込みを入れるところだ。
 バカか、俺は・・・。

 などと思ったけれど、香椎先生は間違っても“見ていれば分かるだろう”などとは言わず、
「確かにね。しかしそんなことを言ったら心療内科もあれこれ気を遣わなきゃならないことが多くて、俺達とは別の意味で大変そうだ」
 と、答えて微かに笑った。

 香椎先生が微笑んだ瞬間、俺は目眩のようなものを覚えた。

 いつも遠くから見ているだけでドキドキさせられる笑顔を、至近距離で見せつけられたせいかもしれない。
 そう、それにその上、香椎先生の視線が完全固定、集中型なのもいけないのだ。

 もちろん香椎先生はふつうに笑い、話しているのだろう。
 一時アメリカの医療機関に長期研修に行っていたという彼にはそれが自然なことなのだ、きっと ―― アメリカの人は、相手の目を見ながら話さない人を信用しないと、よく聞くから。

 とはいえ、ここは日本なのであって・・・。
 その笑顔と視線集中のダブル攻撃は、刺激が・・・、刺激が強すぎて厳しい、気が、する・・・すごく・・・。

 と、そんな強い刺激にあてられて声帯が一時的に麻痺してしまったのか、俺は声を出すことが出来ない。
 とはいえ聞かれた事に無反応のまま突っ立っている訳にもいかないので、とりあえず首を横に振ってみる。
 香椎先生は口元に微笑みの影を纏わせたまま、じゃあ、お疲れさま。と言ってそんな俺の前から立ち去ってゆく。

 彼の視線の呪縛から逃れたのと同時に、言えばよかったというような言葉や話が、一気に思考を埋め尽くす。
 今更どんなに洒落た言葉や話が思い浮かんだところで、遅いんだよ・・・。と思いながら香椎先生の後姿を見送っていた俺は ―― ふと、昨日の夜、陽介に言われた事を思い出した。

 とにかく駄目もとでも、アタックしてくしかねぇだろ!とか、
 遠慮がちのお前でも、機会を見て軽く飲みに誘うとか、そのくらいは出来るだろ!?とか、
 そういう一見小さく見える事柄を積み重ねていかねぇと、印象に残んねぇぞ!とか・・・・・・そういう言葉を。

 そう、確かにそうかもしれない。いや、そうなのだろう、と俺は思う。

 今まで好きになった人がいても、自分から声をかけたりした事は一度もなかった。
 普通に女性を好きになれない俺にとって、それは仕方ないことだとも思ったし ―― それに運良く想った人と付き合ってみても緊張や遠慮をしすぎて、疲れるばかりだったりもした。
 だから俺は最近ずっと、自分は恋愛には向かないのだと思って ―― いや、そう思おうとしてきたのだ。
 小さな頃から憧れていたカウンセラーという仕事に就くことも出来たし、いい職場も見つけることが出来たし ―― 悩むことや疲れることはもちろんあるけれど、やりがいのある仕事で、この仕事が続けられればそれだけでも十分じゃないか、と。

 でもそういう風に自分の気持ちを誤魔化してばかりいても、本当の充実感というものは得られないのだろう ―― 陽介がいつも、口を酸っぱくして言っているように。

 それに ―― そう、何よりも香椎先生に対して抱く想いは、今まで他の人に抱いてきた想いとは何か、どこか、違う気もするのだ。
 どこが、どういう風に?と聞かれても、明確な答えを返す事は出来ないけれど、何となく ―― 相手に抱く想いの質感が、明らかに今までと違う気がした。

 こんなの、気のせいかもしれない。
 ただ目の前にある恋に落ちてゆく時の、錯覚でしかないのかもしれない。
 香椎先生と職場以外の場所で話をしたりしたら、俺はきっと他の誰と話をするよりも緊張するだろうし、気を遣うだろう。
 それは予感ではなく、絶対という確信だったけれど ―― それでも、いいような気がした。
 疲れようが、その果てに例えば傷つく事があっても、職場以外の場所での彼を知りたいのだと、その瞬間、俺ははっきりとそう自覚していた。

「・・・あの・・・!香椎先生・・・・・・!!」

 と、俺は言った。

 実際に声を出すまでに、一体何度声を出す努力を重ねただろう?
 こんなの、初めて恋する小中学生みたいで情けなかった。

 しかもそうして必死で呼びかけた声は明らかに不自然なほど震えていて ―― 勇気を出してみたものの、俺はいっそ自分の声が香椎先生の耳に届かなければいいとさえ思った。

 けれどそんな俺の願いも空しく、俺のその情けない声に香椎先生は再び立ち止まり、ゆっくりと ―― 本当にゆっくりと、振り返った。

 まるで俺の醸し出す緊張の気配をじっくりと、値踏みするみたいに。