Fight C Luv

6 : 特別なオプション、とか

「 ―― なに?」
 振り返った香椎先生が、言った。

「・・・あ、あの、香椎先生、今日この後、何か・・・予定、ありますか?」
 俺が思い切って訊ねると、彼は少し首を傾げてから考えるみたいに視線だけを動かして、天井を見た。
 でもそれからすぐに俺を見て訊き返す、「どうして、そんな事を訊くのかな?」
「どうしてって・・・、・・・もし予定がないなら、飲みにでも、行かないかな、と・・・思って、・・・ ―― 」
 と、何とかそこまで言ったものの ―― 俺は自分のその、あまりのたどたどしさが情けなくて、恥ずかしくて、後先考えずにその場から逃走してしまいたくなる。

 今のはどう考えても、普通に何気なく通りすがりの同僚を飲みに誘ったようには聞こえないだろう。
 これなら正々堂々と告白でもした方がまだマシだ。

 恥ずかしすぎて、穴があったら ―― いや、そんな消極的な言い方ではなく、穴を“掘ってでも”入りたいと思った。
 今俺に穴を掘らせたら、日本の真逆に位置するというブラジルに自力でたどり着く事さえ出来る気がした。

 俺はもう、一言も言葉を発せなかった。
 動く事も出来なかった。

 誰か通ってくれれば適当にこの場から逃げ出してしまえるのに、まるで深夜みたいに人影がない。
 元来、ここは病院スタッフのロッカーや仮眠室に向かう廊下だから、常に人通りがある訳ではない。
 けれど日勤勤務の終るこの時間、普段ならもう少し人の行き来があるのに・・・ ―― と、八つ当たり気味に恨めしく思ったその時、ふいに、足音が聞こえた。
 あ、助かった・・・。と思って顔を上げると、歩いてくるのは他の誰でもなく香椎先生で、俺は目の前に戻って来た彼の顔をとても見ていられず、再び床に視線を落とす。
 すると何故か彼は上半身を少しかがめるようにして、俺の顔を覗き込んだ。
 恥ずかしいというか居たたまれなくなって更に深く俯くと、彼も更に深く俺を覗き込むようにした。

 顔から火が出る、というのはこういう状況を指しているのだと、身を持って体感する瞬間。

 もう、空間に溶け果ててしまいたい・・・。

「あのさ、秋元(あきもと)先生は俺を、飲みに誘ってくれてるんだよな?」
 ひたすら消滅を願う俺に、香椎先生は訊いた。
 そろそろと視線を上げてみると、彼はじっと俺を見ていた。
「・・・俺のその認識が間違っていないのなら、どうしてそんなに赤くなってるんだろう?もしかして努力次第ではその後、特別オプションがついたりするんだろうか」
「・・・と、と、ととと、特別・・・っ!?」
 驚きのあまり飛び上がるようにして身体を引き、叫んだ俺を見た香椎先生は声をあげて笑いながら身体を起こす。

「冗談だよ。ただの冗談。
 俺、まだ少し仕事が残ってるから・・・そうだな ―― と、香椎先生は腕を上げて時計を確認した ―― 1時間後に駅前の喫茶店で待っててくれるかな」
「・・・、・・・はぁ・・・」
「じゃあ、また後で」
 と、言った瞬間にいつもの通り顔から表情を消した香椎先生が足早に立ち去って行くのを、俺は呆然と見送っていた・・・・・・。

 約束の時間ぴったりに喫茶店に現れた香椎先生は俺を、新宿の裏通りにある、外見からはとてもそこがお店であるとは気付かないであろう、知る人ぞ知る、といった雰囲気のイタリアン・レストランに連れて行ってくれた。
 先生の顔を見ただけでウェイターが当たり前のように彼の名前を呼んだので、過去に何度か来ている店なんだろう。
 こういうのがいわゆる、“一見さんお断り”というようなレストランなのかもしれない。

 俺達が案内されたテーブルは店の一番奥にある席で、大きな窓からは綺麗に整えられ、感じよくライト・アップされた庭が見えた。
 都内、しかも新宿でこんな立派な庭を維持するのは大変なんじゃないかな、などと妙な心配をしている俺をよそに、先生はウェイターとワインの相談なんかをしていた。

 きっと、彼はこういう事に、本当に自然に慣れ親しんでいるのだろう。
 脱いだコートをウェイターに渡し、引かれた椅子に腰を下ろすという、なんということはないことだけれど、そういう一連の流れをここまで自然に出来る人は、そんなにはいないと思う・・・。

 などと、彼の顔をぼんやりと(自分から言い出したとはいえ、長いこと憧れ・・・というか、気になっていた香椎先生とプライヴェートで2人きりという状況に一杯一杯になっていたのだ)眺めていた俺は ――――

「・・・・・・なぁ、大丈夫か?」
 と、ふいに声をかけられて、はっと我に帰る。
 見るとウェイターはもうおらず、組んだ手で顎を支えた先生が真っ直ぐに俺を見ていて ―― 目の前にはいつの間にか、ワインが注がれたグラスが置かれていた。
「・・・ええと・・・・・・あれ?」
 と、俺が言うと香椎先生は笑い出す。

 病院では殆ど笑わないのに、実際のところはそうでもないという事実を知って(自分がネタになっているとはいえ)嬉しい気がしたけれど ―― でもやはり、目の前でこんなふうに笑顔を見せられるとクラクラする。
 陽介に言ったように、他の人に向けられた微かな笑顔を見かけただけで一日中嬉しかったくらいなのだ。
 それが今や、病院で見せるものの数割り増しの笑顔を、自分に向けられているのだから・・・この場で興奮のあまり卒倒したって、特に驚くべき事じゃない。

 そして俺は、自分が彼の事をいつの間にかとても好きになっていたという事実を、本当の意味で理解した。
 もしかしてそうなのかな?と思っていたけれど、やっぱりそうなんだと自覚したのは、この日、彼と一緒に食事をした時だったと思う。
 しかしこの場合、ここで彼を好きだというはっきりとした自覚を持った事は、事態に余りいい影響を及ぼさなかった。
 極度の緊張と自覚した彼への想いの相乗効果で、何を言われてもまともな返事が出来ず、その度に笑われてパニックの度合いが深まり、また更に妙な事を口走り、更に笑われて ―― という、正に悪循環のような状況で。

 ありとあらゆる意味で自分がもうどうにもならない、と思った俺は、少し酔った方が緊張がとけるかも。と半ばやけ気味に、グラスを重ねていった。