8 : 遠くに行きたい
「・・・はぁっ!?ラ・・・ッ・・・、ホ・・・!?・・・ってか、な、直く、・・・ってっ・・・・・・」
と、言った俺の声は完全にひっくり返って飛び跳ねていた。
けれどそれに気がつく余裕が、その時の俺には1ミクロンも無かった。
場所がラブホテルなのも仰天ものだけれど、“直くん”って・・・!!
ついさっきまで名字で呼び合っていたものを、どうして唐突に名前、しかもくん付けで呼ぶのか。
一体 ―― 一体、何があったんだ・・・!!!
パニックの極地に落ち込み、意味を成す単語を喋れなくなっている俺を見て香椎先生は、
「いや、実際、実に驚いたよ。俺も経験が乏しいとか、そんな綺麗事を言う気はさらさらないけどな、ちょっと休んでいきましょう!とかラブホテルに強引に連れ込まれたのは天地神明に誓って初めての、貴重な経験でございました。
ああいうのはこっちの台詞だったから、今まで」
と説明して、堪えきれない、という風に笑い出す。
「えぇえええ!!そ、そんな・・・・・・う、う、う・・・・・・」
「因みに俺は、嘘はひとつもついていない」、と香椎先生はにこやかに笑いながら断言した、「因みに“秋元”とか、“秋元先生”なんて呼ばずに、名前呼んでください!って言ったのも君ですよ、“直くん”」
「・・・・・・・・・!! ―――― !!! !!!!」
もう声すら発せられなくなった俺は、血の気が上ったり引いたりしている頭を、両手で抱えた。
あ、頭が・・・頭がグラグラする・・・
お願いだから、誰か・・・誰か俺に・・・掘削機、貸して下さい・・・
アフリカでも、ジンバブエでも、アルゼンチンでも・・・どこでもいいから、とにかくどこか遠くまで穴を掘って、旅に出たいです・・・・・・
「・・・なぁ、大丈夫か?」
恥ずかしさと情けなさとパニックの余りベッドに前のめりに屈みこんだ俺に、香椎先生が言った。
「・・・はっ、だいじょ・・・って、うわー!!」
顔を上げたそこに、いつの間にか側に寄って来ていた香椎先生の顔のアップがあって驚いた俺は、仰け反りつつ、ベッドから飛び降りる。
「直くんさ・・・・・・」
呆れた顔をして身体を起こしながら、香椎先生が言う。
「俺はただ、心配してるだけだから。酔ってるのにそんな動き回ったら気持ち悪くなるぞ」
「・・・す、すみません、ご迷惑おかけして・・・、あの、でも、もう大丈夫です・・・」
「へぇ、そう?絡み酒っていうか、テンションが高くなるだけで、悪酔いしてる訳じゃないんだ、直くん」
「・・・あ、あのぉ、香椎先生・・・お願いですから、もうそれ、勘弁してください・・・取り消しますから・・・」
「取り消す?何を?」
「俺が言ったんですよね、名前呼んで下さいって・・・でもあの、もの凄く恥ずかしいので、やめて頂けると・・・」
と、俺が言うと香椎先生はああそう。と言ってくすりと笑った。
「それじゃあ“秋元”、過ぎた事は過ぎた事として、適度にリラックスしていただけますか?見てるこっちにまで緊張が伝染して来そうだ」
「えっ、いや、あの、俺、もう大丈夫なんで・・・帰りませんか?」
「・・・帰るって言っても、この時間じゃあな」
と、香椎先生は腕を上げて時計を確認しながら言う。
「終電は2時間近く前に出ちゃってるし、週末のこの時間だと、タクシーもなかなか掴まらないと思うよ」
「で、でも・・・」
「考えすぎなければいいんだよ。確かに環境がいいとは言えないが、そこは目を瞑って頂いて・・・、そうだな、会社の友人と泊りがけで旅行に来たとでも思えば」
特別どうということもない。という言い方で、香椎先生は言った。が、この状況を旅行とは、到底思えない。
自分で撒いた種とはいえ、ここは新宿歌舞伎町のラブホテルで ―― 恋人ではないけれど好きな人と共に過ごすには、余りにも余りな場所だと思う・・・。
いや、それよりもなによりも、俺も俺だ。
昨日ろくに眠らずに仕事してからあんなにお酒を飲めば、こうなることくらい、少し考えれば想像がつく。
いくら死ぬほど緊張していたとはいえ、そんなの、言い訳にもならない・・・。
ああもう、情けない。情けない。情けない。
情けなさ過ぎて、泣けてくる。
「・・・最近は主婦友達が子供を連れてこういうホテルに遊びに来たりもするらしいし、まぁ、そう落ち込まないで」
いつまでもめそめそしている子供をあやすような口調で、香椎先生は言った。
「・・・そんな馬鹿な・・・」
更に脱力しながら、俺は言った。
「いや、本当らしいよ。こういう所だと食べ物なんかも自由に持ち込めるし・・・。それにほら、カラオケやらヴィデオやら・・・ゲームなんかまで豊富に取り揃えられてるから、母親達がカラオケしながら食べたり飲んだり喋ったりしてる間、子供達にはヴィデオやゲームを与えておけばいいんだって。
情操教育上どうなのかという疑問は沸くけど、今は妙な事件も多いし、ここだと個室だから安全である事は確かだよな。眠くなった子供はベッドに寝かせておけばいいし、その気になれば水遊びだって出来る。考えようによっては一種のテーマ・パークみたいだ」
「・・・は、ぁ・・・」
なんだか慰める方向は妙だけど、これって慰めてくれているんだろうか。と思いながら、俺は一応頷いてみる。
俺が頷いたのを見て、香椎先生も頷いた。
「ま、そういう訳だから、気分が悪くないんだったらとりあえず風呂でも入ってくれば?」
と、香椎先生は脇に置いたファイルを再び取り上げながら、さらりと言った。
少しだけ落ち着きを取り戻してきていた俺は、彼のその言葉に心臓が妙な調子で鼓動を刻むのを感じ、咄嗟に反応が出来ない。
そんな俺の反応をどう判断したのか、ちらりと俺の顔を一瞥した香椎先生は、
「 ―― 俺に関する噂や、病院で言った冗談を気にしているんだったら、そういう心配は一切無用だ。
男にしろ女にしろ、その気のない人間を無理矢理どうこうしようと思うほど若さ漲っている訳でもないし、相手に困っているわけでもない。ご安心下さい」
と、素っ気無く言った。