Fight C Luv

2 : ファイト・ク・ラブ

 ―― と、自ら連絡先を教えたことをさらりと書き飛ばしてしまったが、実はこれは相当画期的な行動であった。
 医師という職業に就いて以降の俺にとって、恋愛相手というものは黙っていても向こうから勝手に寄ってくるものだったからだ。

 男でも女でもいい、近寄って来た中から軽い付き合いが出来そうな(面倒が起こらなそうな)相手をピック・アップして無味乾燥的な付き合いをし、相手が少しでも深入りしてきそうなそぶりを見せ始めたらすぐに手を切る。
 一旦関係を切ると決めたら、どんなに泣かれても、うっとうしく喚かれても、一切関わりを持たない。

 ここ数年、恋人とはそういう付き合いしかしてこなかった ―― いや、する気がしなくなっていた俺にとって、自らの連絡先を相手に教えて連絡を乞うなどというのは、繰り返すが実に画期的というか、自分でやっていて、どうしたって言うのだ、俺は?と内心驚いたくらいだ。

 しかしその後、待てど暮らせど彼から連絡はなかった。
 前述通り、彼から誘いをかけて来て、その日の内に人をホテルにまで誘ったのは彼の方なのだ。
 酔っていたから・・・という理由は一応あったものの、前後不覚というような状況ではなかったし(そんな状況につけ込んでことを為すほど悪魔じゃない)、最初は酔っていたとはいえ、その後更なる誘いをかけてきたのは彼からなのであって ―― しかし ―― しかしだ。また、“しかし”だ。

 俺と彼の間に起きた出来事、つまり彼について語ろうとする場合、この言葉をついつい頻繁に使ってしまう。
 使わずには語れないのだ ―― と、いう訳で恐らくこれからも頻発するであろう、“しかし”、その後俺に抱かれている最中の彼が纏っていた雰囲気を思い返すと、更に混迷は深まり ―― だからこそもう一度きちんとした形で会い、話をしてみたいという欲求を押さえきれなくなっているのだ。
 そう仕向けたのは俺じゃない。明らかに彼の方だ。
 それなのに当の本人は、病院ですれ違っても俺とはろくすっぽ視線も合わせないと来た ―― 一体何を考えているものやら、さっぱり分からない。

 ここまで来ると、遊ばれたのは俺の方だったのか?などという情けない疑惑すら浮かんでくるが、連絡先を手渡した時に彼の顔に一瞬浮かんだ色は、決して迷惑だとか、そういうマイナスの磁力を帯びたものではなかった。
 それを俺は、この目で見ているのだ。
 あれすら演技だったのか、どうなのか ―― そもそも演技などしていないのか、それとも何もかも、全てが俺を陥れる罠めいた演技なのか ―― 考えれば考えるほど頭が混乱し、苛々までしてくる。

 こうなったら何が何でももう一度彼に会って、事の真相をはっきり確かめずにいられるものか。と俺は思った。
 強引にでも何でも、呆れられようが何だろうが、これ以上のらりくらりと逃げ続けさせたりはしない。
 向こうはあの日1度きり、遊んだだけの積りでいるのかもしれないが、そうだとしたら更に面白くない。
 この俺がそんな扱い方をされるなんて、冗談じゃない。
 俺にも人並み(以上)に、プライドというものはあるのだ。

 初めて彼と寝た時、一瞬戦闘モードが解けかかっていたのだが、1ヶ月近く放置された事によって俺は頭のてっぺんまでしっかりと戦闘モードに突入してしまっていた。
 言うなれば、ファイト・クラブに入会完了、どこからでもかかって来なさい。という感じだ。

 そんな訳で、俺はクラブの会員証片手に、半ば脅すようにして彼を行きつけの店に呼び出した。
 もしかしたらこの誘いもかわされるのではないかと考えていたのだが、彼は俺が指定した場所に5分ほど遅れて姿を現した。

 この5分、というのも絶妙な間だと思った。
 こういう時期に10分相手を待たせるのは待たせすぎだし、すんなり時間通りに姿を現されても興ざめだった気がする。
 来るのか、来ないのか、どうするのか ―― そうして深く悩み始める一歩手前が丁度5分位なのだ。

 計算しつくされた彼のやり方に、これは相当気をひきしめてかかる必要があるようだな。と思いつつ、食事の合間に交わす駆け引きのような会話から、少しでも彼の本心を探ってやろうと試みる。
 しかしこんな強引な呼び出し方をしたにも関わらず、彼は臆する素振りなど欠片も見せず ―― それどころかどんな話題を振っても、そこで何をどう聞いてみても、感心するような、まるで俺のために誂えたかのような回答を、完成された微笑みと共に返してきた。
 病院で誘いをかけた時には微かに怯えたような、困ったような素振りを見せていたというのに ―― 全く ―― 実に ―― これは ―― 油断がならない。
 数時間前には確かにあった付け入る隙のようなものが、まるで見当たらなくなっている。

 これを狙い澄ましてやっている事なのか、そうではなく天然なのか、それは分からないし、はっきり言ってそんなのはもうどうでも良かった。
 どちらにしても彼が手ごわい相手である事に変わりはないし、それが今の全てなのだ。

 嘘か本当かなんて、どうでもいい。
 そんな事を今更ぐちゃぐちゃと考えてみた所で、何も前に進まない。

 とにかくこうなったらいっそのこと、妙な小細工やら回りくどい駆け引きなどをせず、ストレートに責めた方が効くのではないか、と俺は思った。
 少しでも猶予期間を与えるとこのように完全復活を遂げられてしまうのならば、相手が次の手を考える前に、先手を打ってゆくしかない、と。

 そう決心した俺は別れ際、きっぱりと彼に告げた。

 このまま終わりにするのか、しないのか。
 俺の気持ちはもう決まっていたから ―― 当たり前だ、そうでなければこんなに食い下がって誘ったりしない ―― 決めるのは、最終的なイニシアチブを握っているのは君に他ならないのだと。

 食事が終った途端にそれまでの余裕たっぷりな態度を一変させ(この乱高下するギャップがどうにもこうにも、俺の興味をかきたてるのだ)俺の行動に引き気味だった彼が、すっと視線を伏せる。

 そしてたっぷりと間をとってから、こちらがもう駄目なのかと諦める瞬間を的確に捉えるように、彼が顔を上げる。

 その、視線の動き。
 伏せた瞼を上げる速度と、視線を上げて俺を見上げる速度の、誘い込むような絶妙なずれ。
 うっすらと開かれた唇から零れる、声にならない、声。

 ざわりと、背中がそそけだつような感覚が、あった。

 そんな俺の精神状態を読んでいるかのように、彼がいつものあの、ゆっくりとした口調で囁く。

 帰りません。帰りたくないです・・・ ――――

 その声は上質なクリームのようにとろりとしていて、暴力的なまでに男を煽る芳香を漂わせていて ―― 完全に堕とされたという自覚があった。

 絶対に彼を自分のものにしてやる、と思った。
 ひとときの戯れなどではなく、目の前にいる存在を完全に自分のものにしたい、と。

 これまで付き合ってきた相手には感じなかったような、熱く煮えたぎるような欲望が、俺を支配する。
 こんな風に突き上げるような激しい感覚を覚えたのは生まれて初めてだったが、しかし、本当の意味で彼を手に入れるためには、この感情を曝け出したらおしまいだと反射的に思う。

 だから俺はとっさに彼を抱き寄せて、口付ける。
 強く、長く ―― そして、激しく。

 この小悪魔的な魅力を叩きつけてくる存在に想いの全てが前面に出てしまっているであろう目を覗き込まれて、本心を悟られてしまわないように。