Fight C Luv

4 : 後悔

 だがその後、数日も時を経ずに、俺たちは終った。

 思い出すのも嫌なので詳細は記さないが、俺が彼に対して感じていた事の何もかもが、信じかけていた何もかもが、積み重ねて来たと思っていた何もかもが、俺の勝手な妄想や思い込みに過ぎなかったのだ。
 彼は俺に心を許していた訳ではなかったし、俺の事をからかったり、俺との事を適当に考えていなかったのかと考えれば、答えは決して否ではなかったのだ。

 数年前の俺であれば、こんな仕打ちを受けてもその次の瞬間に笑い飛ばしていただろう。
 強がりではなく、滑稽な自分を客観的に見て、内心大笑いしたに違いない。
 そしてそれによって多少傷付いたとしても、1日と経たずに全てをなかった事として処理しただろう。

 だが今回はどうしても駄目だった。
 悲しみも怒りもあるにはあったが、それより何より、虚しかった。

 実家の病院の相続権利を巡り、姉と静かだが壮絶で、無血ながらも血生臭いバトルを繰り広げた『あの日々』以来、俺はもう他人の存在を必要以上に自分の中に入れまいと決意していた。
 幼い頃、近所でも評判になるくらいに仲が良かった、家族である姉とすら上手くゆかないのだから、赤の他人となど言わずもがなだろうと、俺は思っていたのだ。

 それなのに ―― あれからまだ数年しか経過していないと言うのに、これは一体どうした事なのだろう?
 こんなにいつまでも浮上出来ないなんて、どうかしている。

 だが傷付いているという事実、それは誤魔化しようのない事実だった。
 泣けるものなら泣きたい位だったが、この期に及んでも奇妙なプライドが邪魔をして、泣けやしない。
 自分に対して見栄を張るなんて、アホみたいだ。
 アホみたいだが ―― しかし、まぁ ―― 仕方ない。
 俺はこういう風にしか生きられないのだ。

 それに“目には目を、歯には歯を”という言葉どおり、他人に対してお世辞にも誠実とは言えない対応を繰り返してきたツケを、こうして払っているのかもしれないとも思えた。

 そして俺はつくづくと実感する。
 やりなれない事はするものじゃないよな、と。
 俺は所詮、恋愛に向く性格の人間ではないのだ。

 しかもその一件を皮切りとして、俺の身辺で下らない騒動が持ち上がった。
 病院長の娘と結婚して病院を継げとか何とか ―― 下らない。全くもって、下らなすぎる。
 どこの病院にも必ずと言ってもいいくらいに付きまとう、権利云々の話から逃げ出したくて、故郷や過去の何もかもを捨ててこんなごみごみとした東京くんだりまでやって来たのだ。
 そして今後は自分が持つ(と信じる)才能だけを頼りに生きてゆこうと ―― 偉くなどなれなくていい、利権や派閥などからは一線を画した場所で静かに生きてゆこうと決めていたのだ。
 その俺にそうした混沌の中心部分に位置する院長の座に就けなどとは全く、笑ってしまう。
 しかもそれだけじゃない、実家の病院と提携する話を進めているなどというのだから、呆れてものが言えない。

 金輪際、互いに互いをきょうだいとも何とも思わない。と啖呵をきり合って別れた2人が、姉妹提携した病院をそれぞれ経営して上手く行くとでも思うのだろうか?
 想像力とか推察力とかが、救いようがない程に欠落しているのだ。

 そして恐らくは、この一連の話を進めている内に彼の存在が判明し、関係を解消する為の話し合いの過程で金銭交渉になったのだろう。
 交渉を担当したという副病院長が“要求が頑としていて、金銭面での折り合いをつけるが非常に大変だった。中々しっかりとした青年だったね”と秋元直を称していたが ―― そんな話を聞くたび、感じる空虚感は深みを増した。

 俺という存在をいくばくかの金に換算する交渉をしたたかに進め、金を手にした途端に姿を消した彼の心理。
 そんな話を聞いても彼への想いを断ち切れず、怒るより先に気分が暗くなってゆく自分の情けなさ。
 虚しくぽっかりと開いたその空洞を埋めてやろうとするかのように押し寄せてくる、反吐にまみれたような雑事。
 俺が病院長になるという噂を信じて巻き起こった病院内部での医師同士のせめぎ合い、意地汚く人の腹を読もうとあの手この手で俺に取り入ろうとする人間のへつらい、日々雪崩のように押し寄せる見当違いな祝いの言葉・・・ ―――― 。

 頭がおかしくなりそうだと、何度思ったか知れない。
 恋愛に妥協をするくらいなら、一生寂しいほうがマシだ。と考えていた俺に、恋愛すらすっとばして妥協も何もなく、お仕着せで結婚しろと言うのか、冗談じゃない。
 幸か不幸か、そんな結婚をして得意になれるほど、能天気な性格はしていないのだ。

 だがやはり、そこには色々な細かい(繊細なのではなく、ただ煩雑に細かいだけだ)問題があって、俺が病院を継ぐ云々の話を完全に終結させる為には半年以上の月日がかかってしまった。
 途中何もかも投げ出して消えてしまいたいと思ったりもしたが、あっちでもこっちでも逃げてばかりはいられないので、俺は根気良く、日々同じ事を同じ言い方で、関係者に説明して回った。
 最後の方になると、口の筋肉がひきつけを起こしそうになったくらいだ。

 そうした努力が実を結び、全ての事柄が一応の決着を見た数日後、帰りがけに田所部長が俺の所にやって来て、これからちょっと付き合わないか。と言った。
 彼は俺がこの病院で唯一信頼している、今回の騒動でも親身になって俺のフォローをしてくれた医師であった。

 向かったバーで、彼は暫し黙って琥珀色の液体で満たされたグラスを傾けていたが、やがてくすりと笑って俺を見て、
「完璧に整備された出世街道から自ら降りるなんて、君もつくづく、変わっているな」
 と、言った。
 彼が余りに長い事黙りこくっているので、流石にどうしたのかと心配になっていた俺も笑い、
「出世街道に乗ろうとしないのは、田所さんも同じじゃないですか」
 と、答える。
「いや、私の場合はそこに乗り切れないだけだよ。君みたいにせっかく引っ張り上げてもらったその場から飛び降りるのとは話が違う」
「そうでしょうか。それ程の違いはないように思えますが」
 俺が指摘すると、田所部長は少し考えてみてから、そうかもな。呟いて苦笑した。
「・・・今回の件で副院長たちは、君を意のままに操って病院を背後から支配しようと目論んだのだろうが ―― 君をそんな風に扱えると考えているのが笑止千万、人を見る目が無さ過ぎる。
 こうして上司を斜に見て陰で笑って楽しんでいるような人間は、出世したくない訳じゃない。なんて言いながら、本気で上を目指していないのかもしれないね」
「俺があんなに大変だったのを見て、裏で面白がっていたのですか?酷いですね」
「だからこそ、こうして謝罪の席を設けているんじゃないか」
 田所部長は冗談めかして言って、笑った。が、すぐに真顔に戻って目を伏せる。
「ただ・・・ひとつ ―― 後悔はしている」
「・・・後悔?」
「ああ・・・そう ―― いや、あればかりは私にもどうしようもなかったとは思うから、後悔と表現するのは違うかもしれないがね・・・、だがとにかく、可哀想だった。あの光景を思い出すと、今でも心が痛む」
「・・・何の話ですか?」
 どことなく嫌な予感を抱きつつ、俺は訊いた。
「・・・秋元直の話だよ」
 目を伏せたまま人差し指でグラスの中の氷をつつきながら、田所部長が答えた。