5 : 選択の余地のない選択
「秋元直」、と俺は繰り返す、「彼が、どうかしたんですか」
「とぼけなくていい」、と田所部長は言う、「知ってるんだ。君と彼の事はね」
「・・・知ってる?」
俺は再び繰り返す。そして笑う。
思わず漏れた笑いは、当事者である俺にもよく分からなかった彼との関係を、他人に易々と理解されて堪るか。という想いから派生するものと ―― あれから半年以上経過した今でもまだ、彼の名を聞いて重苦しい気分になる自分に呆れる想いが交錯していた。
田所部長は俺の口調に滲むそういった気配に気付いていたと思うが、気にせずに続ける。
「“秋元直は金銭と引き替えに、あっさりと君から手を引いた” ―― と、聞かされたんだろう、あの時?」
「・・・そうですね、大筋は。それと、かなりしたたかに金銭交渉をしたとか何とか・・・折り合いを付けるのが大変だったらしいですね」
自棄ぎみに俺が言うと、田所部長は何故かそこで大声で笑いだした。
その笑い声は静かな店内に響き渡り、店中の客が一斉にこちらを非難がましい目で見る。
カウンター内にいるオーナーとおぼしきバーテンダーはちらりと視線を上げたものの、特別な反応はせず、グラスを磨く作業を続けていた。
田所部長は小さな会釈と軽く手を上げる事で周りに謝意を示し、気持ちを落ち着かせるように深呼吸をしながら、
「金銭交渉、か・・・、ものは言い様だな」
と言い、手の中でグラスを一回転させた。
「・・・何ですか、それは。つまり、あれは嘘だったとでも?」
「いや、嘘ではない。嘘ではないよ。完全なる真実とも言えないと思うがね」
「・・・田所さん、回りくどい言い方をしないで下さい」
感じた嫌な予感がどんどん膨らんでゆくような気がしたが ―― これも彼への消せない未練がからくるものなのか、それは分からなかった。
田所部長は手にしたグラスの、薄くなりかけたウィスキーを一口飲んでから、身体ごと俺に向き直る。
「“金銭交渉”というのに、金銭を受け取れ、受け取りたくない、と、そういうやりとりも含むのであれば、副院長たちが言ったのは嘘ではないだろう。だが ―― と、そこで田所部長はぎゅっと顔をしかめた ―― どちらにしても、あれは“交渉”などというものではなかった。副院長たちはとにかく君の身辺を綺麗にして、一分一秒でも早く院長の娘と君との話を進めたいと考えていたし・・・君だってそういう時の彼等のやりくちの強引さを、今回の事で嫌というほど理解したんじゃないのか?」
そう問われ、返事をしようとしたが、声が出ない。
頷く事すら、出来なかった。
「彼に選択の余地など、ありはしなかった」
固まっている俺を真っ直ぐに見ながら、田所部長は言う。
「それは彼にも分かっていたはずだ。君と別れる事を承諾する以外の選択が、自分には許されないと言うのは。
それを分かっていたからだろう、彼は君と別れる事自体に異議を唱えはしなかった。君の将来のため、と言われて、それを信じているようでもあった。だが金銭だけは受け取れない、受け取りたくないと・・・金が目当てで君と付き合っていた訳ではないからと、何度も、繰り返し訴えていた。何もかも言う通りにする、でも金銭を受け取る事だけは出来ない、どうかそれだけは許して欲しい、とね。
何度言おうと、どんなに泣こうと、意味などなかったのに」
「・・・泣いて・・・?」
と、俺が尋ねたのに、
「いや・・・、泣いてというのはあくまでも例えだが ―― だがむしろ、あれなら泣いてくれた方がよかった。泣いてくれれば、慰められるからな」
と、田所部長は答え、身体を正面に戻した。
「あれからどうも気になって、彼のことを少し調べてみたんだ。
彼は小学生の頃に両親を事故で亡くしているんだが、親戚連は誰も、彼を引き取ろうとはしなかったんだな。それで結局・・・ほら、心臓外科の桜井、あいつの家に引き取られている。元々母親同士が親友で、家族ぐるみでのつき合いだったらしいんだが」
と、そこで田所部長は新しくきたショット・グラスを引き寄せ、注意深く匂いをかいでからそれを口に含んだ。
「桜井と秋元直は相当仲が良さそうだったし、恐らく大切に育てられたんだろうと思う。彼は大学院まで出ているし ―― だが本当の両親や血のつながった親戚に育てられるのとは、全く違ったろう。我儘や無茶も言えず、ずっと我慢をして、自分を殺して、周りに遠慮して、生きてきたんだろう。そういう・・・歴史と言えばいいのか、彼のこれまでの人生の軌跡のようなものが、あの時側にいて、よく伝わってきた。自分の気持ちを殺し慣れているというか ―― 人前で感情をさらけ出すことが出来ないんだろうな。
あの時、君がどういう対応をするものかと思っていたのだが・・・、結果はこう出た訳で、副院長たちがした事の悉くは全く意味はなかった、という話だ」
「・・・しかし・・・しかし、彼はそんな事は全く、おくびにも出しませんでしたが」
たどたどしく俺が言うと、田所部長はひょい、と肩をすくめた。
「それでは秋元直は何もかもを全て、副院長らの言う通り、完璧にやり遂げたと言う事だよ。副院長が渡した金には“金のためならなんでもする人間”だという虚像を君に信じ込ませる“演技料”も含まれていたんだからね ―― だが君のように疑り深い、ひねくれた男を騙し通すとは恐れ入るな。
それとももしかして、騙されたのには君の側に、彼に対する弱みがあったからなのかな?」
最後、田所部長は意味深に呟いた。
「・・・それで・・・、その後彼はどうしたんでしょう」
急速に指先が冷たくなってゆくのを感じながら、俺は言った。
「さぁね。副院長が新たな仕事先を紹介したそうだが、彼はその紹介先の面接に姿を見せなかったそうだ。
気になっていたから、数ヶ月前に改めてさりげなく調べてみたんだが、彼は誰にも行き先や連絡先を告げずに姿を消している。ぱったりと、まるで消えるみたいに。住んでいたアパートもここを辞めた直後に引き払っているし・・・こうなると追い掛けようがないだろうね」
と言い、田所部長はそれ以降、彼の話をする事はなかった。
俺はかけられる言葉の意味の大半を上手く認識出来ないまま、それに対してひたすらに当たり障りのない返答をし続ける。
脳裏では、最後に見た彼の冷たい物言いと態度が、何度も何度も、リピートされていた。