6 : 希望のカケラ
俺に残された頼みの綱はもちろん、ただひとつだった。
田所さんの話にも出てきた、彼とは兄弟同然の仲であるという、桜井陽介。
彼が勤務中によく桜井陽介と共にいたのを俺は見て知っていたし、口数の少なかった彼が俺の前で口にした数少ない言葉の中に、幾度か桜井陽介の名が含まれていたのもあった。
桜井陽介であれば、彼の行き先を知っているに違いなかった。
しかしあくる日の仕事あけに桜井陽介をつかまえ、彼の所在を知らないだろうかと尋ねてみると、桜井陽介はにべもなく、知らない。答え、その後はどう聞いてみても答えは同じだった。
だがむろん、おいそれと引き下がる訳には行かない。明らかに、桜井陽介は彼の行き先か、居場所を知っている ―― とすれば、俺に残されている彼に繋がる糸は、もうこれしかないのだ。
職場で散々声をかけたが“知らない”の一点張りで埒が明かず、仕方なく俺は余り公に口には出来ないやり方で(何と言う事はない、深夜、病院内の事務所に忍び込んで住所録を見たのだ)桜井陽介の住所を調べ、彼の家に向かった。
玄関ドアを開けた彼は、そこに立っている俺を見てさっと表情を消し、
「何なんだ、一体」
と、表情と同じ、平坦な言い方で言った。
「再三言っているように、秋元直の居場所を教えて欲しいんだ。どうしても彼に会って、話さなければならない事がある」
と、俺は言った。
「桜井は彼の居場所を知っているんだろう。教えて欲しい」
「だからそんなの知らないって、言ってんだろ」
と、桜井陽介は言った。
「帰れよ。お前の顔は、職場以外で見たくない」
そう言って閉じられようとするドアを、俺は掴んで止める。
「知らないなんて嘘だろう。教えてくれるまで絶対に諦めない」
「例え何を知っていたとしてもお前なんかには教えねぇんだから、ここに来たって無駄だ」
桜井陽介は言って、渾身の力を込めてドアを閉じようとする。
勿論俺も彼が加えているのとは逆の力を込めて、そうさせまいとする。
暫くそうしてドアを挟んだ攻防戦が続けられたが、その争いは室内の奥から顔を出した女性(桜井陽介の恋人なのだろう)の、
「陽介、とにかく上がってもらって。そんな所で騒いでいたら、近所に何事かと思われるわ」
と、言う声で遮られた。
それもそうだと思ったのだろう。渋々、といった様子ではあったが、桜井陽介は俺を玄関に入れた。
俺がドアを閉めたのを見届けてから、女性は再び奥へと姿を消した。
相変わらず恐ろしいほど無表情に俺を見る桜井陽介を見返しながら、俺は言葉を選びつつ口を開く。
「・・・怒るのも無理はない。あれから半年近い月日が経過している訳だし、俺が今更何を言っても言い訳にしか聞こえないのも重々承知だ。彼に起こっていた事を知らなかったとか、気付かなかったとか、そんなのは言い訳にすらならないのも分かっている。しかしもう一度だけ、彼に会って、きちんと話をしたいんだ。だから・・・」
「話?話って何だ?今更、何を話したいって言うんだ」
と、桜井陽介は少しも表情を動かさずに言った。
「直を自分の都合のいいように弄んでおいて、何が“きちんと話をしたい”だ、笑わせんな」
「弄んでなんかいない」、びっくりして、俺は言った、「どうしてそんな話になるんだ」
「弄んでいないのなら、からかって、面白がってたのか?どんな言い方をしても、同じ事だ。少なくとも、俺にとっては」
「ちょっと待ってくれ。何を根拠にそんな話を信じているのかは知らないが、事実、俺は彼が好きだったし・・・ ―― 」
と、俺が勢い余って言うと、桜井陽介は、ははは。と手にした株価情報のメモでも読み上げるみたいに笑った。
「本っ当にむかっ腹の立つ男だな、お前。好きだったって・・・そんなアホみたいなたわごと言って、誰かと賭けでもしてんのか?もう一度ちょっかいかけたら直がどうするか、とか何とか?」
「何を言っているのか分からない・・・、桜井は何か、とんでもない思い違いをしてる」
「思い違いが聞いて呆れる。
じゃあ訊くけどな、今お前が言った事 ―― 思い違いだか何だかが本当だったとして、お前、直と一緒にいる間、あいつに好きだとかそういう事を・・・例え一度だっていい、そういう事をきちんと直に言った事があるのか」
ぐっと返答に詰まる俺を見て、桜井陽介は呆れ果てたという風に、右側の眉をたわませた。
「言ってねぇよな、一度だって。だったらあいつは、お前みたいな遊び人の、何を信じればいいんだ」
「・・・それは・・・」
「あいつはな、何度も何度も、口癖みたいに、まるで自分に言い聞かせるみたいに言ってたぜ。自分が好きだからいいんだって。遊ばれていようが何だろうが、自分が好きだからそれでいいんだって。何も望んだりしない、短い間でも、お前の側にいられればそれだけでいい、ってな」
感情が抑えきれなくなったのだろう、そこで初めて桜井陽介の表情が大きく歪んだ。
「早くに親を亡くして、苦労と我慢ばっかりしてたあいつが、文字通り死に物狂いで作り上げた居場所を、お前は奪ったんだ。有能な脳外科医で、恵まれた環境でぬくぬく育ってきたお前には到底分かんねぇだろうけどな、そういうのを平気な顔してぶち壊しておいて、よくも ―― よくも今更会いたいなんて、言えたもんだな・・・!
しかもそれだけじゃない、別れ際にお前、あいつに何をして、何を言ったか、忘れちゃいねぇだろうな・・・ああそうだ、ちょっと待ってろ」
そこで桜井陽介はぐるりと俺に背中を向け、部屋の奥に姿を消した。
すぐに戻ってきた彼の手には、薄茶色の封筒が2つ握られていて、彼はそれを叩きつけるように俺に押し付けた。
「お前らが直に渡した金だ。お前の結婚話が上手く纏まったら返しておいてくれって、直に頼まれてた。結婚話が上手く纏まらなかったらしいって聞いたから、どうしようかと思ってたんだけどさ、丁度いいからお前に渡しておく。副院長に返すなり、処分するなり、しろよ」
指先に封筒の分厚い膨らみを感じながら、俺はのろのろと顔を上げる。
とにかく何かを言おうと口を開いた俺より先に、桜井陽介は顎をしゃくってドアを指し、
「これで用は済んだだろう。帰れ」
と、言った。
「・・・待って・・・待ってくれ、こんな・・・ ―― 」
たどたどしく言う俺の言葉を聞きもせず、桜井陽介は俺の胸元を荒々しく掴み上げてドアを開け、突き飛ばすように俺を外に押し出した。
そして最後に、
「仕事はこれまで通り、きちんとやる。必要な話もきちんとする。だが俺は個人的に、お前を一生、絶対に許さねぇ。
いいか、今後もう二度と、仕事以外の用件で俺に話しかけるな」
と言い、ばたんとドアを閉めた。
辺りの空気が一瞬のうちに粉砕されるような、それは凄まじい勢いだった。
俺は ―― 俺は桜井陽介のマンションから押し出されたままの格好で廊下の手すりに寄りかかり、足元に降り積もってゆく空気の残骸とそこに封筒からこぼれ落ちた一万円札が混じりあってゆく様を、呆然として眺めていた。