Echoes of Love

3 : これが幸せでないのなら

 危惧していたことがそのまま現実となったのを知った俺は、言葉もなく、その場に立ち尽くす。

 既に病院内では、“何だか凄く有名な脳外科医がここに勤務する事になるかも”という噂がまことしやかに流れていたので、びっくりはしなかった。ある程度の覚悟もしていた。

 しかし出来ることなら、職場恋愛は避けたかったというのが正直なところだ。
 俺はそう器用な質ではなく(今更言うまでもないと思うけれど)、職場恋愛には元から向かない。
 東京の病院で起きたあの騒動が、その苦手意識に拍車をかけてもいた。
 だからもう二度と職場恋愛だけはするまいと固く心に誓っていたというのに ―― その決意が固まるか固まらないかのうちに、また以前と同様こっそりひっそりとした付き合いをしなければならないとは。

 別に自慢して回りたいという訳じゃない。
 同性同士というだけで根本的な部分からおおっぴらに出来ず、隠さなくてはならない事柄が多いのはもちろん分かっている。
 ただそこにわざわざ、さらなる秘密を付け加えなくてもいいじゃないか、とは思うのだ・・・。

 無言で、悶々と考え込む俺を見て先生は、何だか不服そうだねぇ。と言った。
「・・・別に不服っていうんじゃないんですけど・・・、でも・・・」
「・・・でも?」
「・・・ええと・・・、でも、嫌じゃないですか、また以前みたいにこっそり会ったりしなきゃならないのって。俺、そういうの得意じゃないですし・・・」
「そうか?結構スリリングで楽しいと、俺は思うけどね。また暇を見て、2人で夜の病院で遊んだりして」
「あ、遊・・・?・・・って ―― っ、先生!いい加減にしてください!!」

 先生の口元の浮かんだ意味深すぎる笑みを見て、反射的に、一気に、リアルに、あのとんでもない夜の病院での一件を思い出した俺は、飛び上がるようにして立ち上がり、夜中だという事も忘れて大声で叫んでしまう。
 あんな事をまたやられては堪らない・・・と言うか ―― こうして普通に付き合う事になった今思い返してみると、あれは実にとんでもない出来事であったとつくづく思う。
 ・・・激しく今更だけど・・・。

 先生は顔を真っ赤にしている俺を見て、呆れたという風に眉を歪ませ、
「あのさぁ、君、冗談が通じなすぎるって言われない?」
 と、言った。
「だ・・・だって・・・!先生、凄い真面目な顔してるから!冗談言ってるように聞こえないですし、見えないんですけど!」
「何を言っているんだ。オチを言う前に笑い出すほど間抜けなことはないだろう」
 と、先生は言った。
「しかし、まぁ確かに君が言う通り、転任早々元々そこに在職していた君と特別な関係にあるとなると、妙な詮索をされるかもしれないし、かと言ってこそこそ隠れていたくないのは俺も同じだ。そういうのは東京で懲りたし、不快な雑事も増える。君がその気なら、いい案がある」
「・・・いい案?」
 不快な雑事って何だろう、と首を傾げて訊いた俺に先生は、
「ああ。カミングアウトしてしまえばいいんだよ。そうすれば一切合切、こそこそしなくて済む」
 と、爆弾発言的な提案を、さらりと口にした・・・。

「秋元さん、新しく脳外に入った先生、もう見た?」

 同僚のカウンセラーの梁瀬(やなせ)さんにそう言われて ―― まさか見ていないなんて嘘を言う訳にもゆかず、俺は頷く。
 すっごく格好良い人だよね。と更に言われて、それにも俺は頷いて答える。

 うん、確かに香椎先生は格好いい。
 俺も一目ぼれだったしな・・・。

 ―― などと思いながら。

「なんかね、東京のかなり大きな病院にいて、相当有名なお医者さんらしいわ。一応所属はここになるらしいけど、早速あちこちから声がかかってるから、違う病院に出張で手術しに行ったりもするみたい。そんなエリート医師、こっちで見たの初めてよ。
 そういえば秋元さんも東京の病院に勤務経験あるって訊いたけど・・・」
「出張って、道内にですか?それとも国内あちこち・・・って事なんでしょうか。何にせよ、忙しくて大変そうですね」

 俺はさりげなく話題を転換して、言った。
 簗瀬さんは明るくて良い人なんだけれど、非常に優秀なカウンセラーだけあって、洞察力が鋭い。
 一緒に仕事をしていても、どうしてそんなところにまで気付くのだろう?目を見張ることも多く、なかなかどうして、侮れないのだ。
 しかもそこに努力による情報収集能力も加わっており、香椎先生とこうなった以上、あまり油断は出来なかった。

 俺はこっちでは過去の事はあまり(というか全然)人に話しておらず、彼女も今では俺のそういうスタンスを分かってくれている。
 今では彼女だけでなく、俺の経歴にはあまり触れないというのが暗黙の了解にすらなっているのだ。
 努めて隠そうと思ったわけではないけれど、俺は人に話して聞かせて、相手が楽しいと感じる人生を送って来ている訳ではない。
 特に香椎先生との一件はなかなか生々しさが消えず、軽々しく人に話す気にはなれなかったのだ。
 でもこういう展開になった今となっては、そうしていた事は本当に良かったと心底思う俺だった。
 この病院に職場恋愛は御法度、っていう決まりがあるとは聞いてないけれど、大々的に知られて具合のいい事は何もないだろうから。

「うーん、どうなのかな。でも国内あちこち行くことになるんじゃない?一番多いのは関東とか関西の方かしらね」
 右手の人差し指の先を顎に添えながら、梁瀬さんは答えた。
「そうですね、あっちは病院も多いですし」
 と、言いかけた時、ナースステーションのカウンターの向こうを香椎先生と外科部長が通って行き ―― その際に彼は俺を見て、とても自然に、さり気なく、目元だけで微笑んだ。

 それは1秒の何分の一とかの、本当にちょっとした出来事だった。
 いつも、どんな細かい事も見逃さずに話題にする梁瀬さんだって何も言わなかった程の。
 でも俺はそれだけで、たったそれだけの事で、胸が痛くなる程にドキドキして、やりかけていた仕事の進行が突然覚束なくなってしまう。

 幸せなのだろう ―― と、思う。
 多分。

 もう関わる事もないだろうと思っていた先生が俺をこんな所まで探しに来てくれて、しかも俺を好きだとさえ言ってくれているのだ。
 これが幸せでなくて何だというのか。

 梁瀬さんがする罪のない噂話に答えたり笑ったりしながら、俺は自分に向かって幾度も、そう問いかけていた。