Echoes of Love

4 : 一緒に暮らそう

 信じがたいとしか表現しようがない事が立て続けに起こったせいだろうか、その後の日々はなんだかんだと本当に目まぐるしかった。
 ある出来事とある出来事がどういう順番で起こって、それらがどういう風に関わっていったのか、みたいな事が当時は客観的に見えず、後で考えてみてようやく“ああなるほど、あれはああいうつながりだったのか”みたいな ―― 大袈裟に言うとそんな感じで、どうにか生活が落ち着いたのは夏の始め、先生が札幌に来てから実に半年以上の月日が経ってしまっていた。

「恐らく俺は、今後どんなに努力しても、一生彼には信用されないんだろうね。
 まぁ、無理もないけど」
 と、空港へ陽介たちを送って行った帰りの車中で、先生が言った。

 香椎先生が札幌に来てくれて直ぐに、陽介には事情を全て説明していた。
 多分凄く驚いて、反対されるだろうと覚悟していたのだけれど、彼は“沙紀が不穏な動きをしてそうだと思ってたけど、やっぱりそういう事だったのか”と言っただけで、驚く事はなかった。
 しかし何度も何度も、しつこいくらいに“本当にそれでいいのか?”“あいつを今後、完全に信じてついて行けるのか?”“前みたいに遠慮しすぎないでいられるか?”などなどと、心配そうに聞いて来ていて ―― 今回、夏休みを利用して沙紀さんと一緒に様子を見に来てくれたのだ。

「俺が頼りないから心配しているんです、陽介は・・・、先生を信じるとか信じないとかではなく」
 と、俺は言った。
 ふん、そうは思えないけどね。やたら喧嘩腰だったし。と無感動に、懐疑的に、喉を鳴らすようにして異議を唱えた先生は前を走っていた濃紺のパジェロを追い越してから、横目でちらりと俺を見る。
「だが言わせてもらえば、今やその責任の殆どが君にあるんじゃないかと思うんだが」
「え、俺?」
 びっくりして俺が聞き返すと彼は、だってそうじゃないか。そうだろう?と言って、俺の住むアパートの前で車を停め、エンジンを切ってから俺の方へと向き直った。
「“もうこれ以上適当な関係を続けていないでケジメをつけろ。男同士だから結婚は無理としても一緒に暮らすくらいはできるだろう”とか何とか、この3日でそういう類の事を何回言われたと思う?同棲どころか、カミングアウトして籍を入れることだって辞さないって言ってるのを幾度となく断られて、傷ついているのは俺の方なのに」
「そんな、誰も断ってなんかいないじゃないですか・・・!」
 と、俺は慌てて抗議する。
「ただ・・・、ちょっと待ってくださいって言っているだけで・・・俺、今はこの状況についてゆくのが精一杯なんです。だから同棲とかカミングアウトとか、ましてや籍入れるとか考えられないんです。
 先生にとって何がいいのかとか、先生と一緒にいるのが俺なんかでいいのかとか、考え出すと分からなくなって・・・、大丈夫って自信がまだどうしても持てないんです。だからそういうのも含めて考えて、自分で色々、全部、きちんとやっていけるって決心出来るまでの時間が欲しいって、俺はそう考えて・・・」
「ああ、もういい。もうやめてくれ。君のそういう無限スパイラル的な思考回路に基づく長台詞は、ほとほと聞き飽きた」
 先生は苛々と ―― という風に見えた ―― ハンドルを人差し指と中指で交互に叩くようにして、俺の言葉を遮った。
「俺が聞きたいのはごちゃごちゃとした訳の分からないごまかしで包装された断りの言葉じゃなく、イエスって返事だけなんだよ」
 そして再び、さっきよりも2割位疲労の増したため息をついた。
 そのため息を聞いて、俺は追い詰められるような、どうしようもなく哀しいような気分になってくる。

「・・・もう少し、このままでいたら、駄目ですか・・・?」
 中くらいの沈黙の後に、俺は呟くように聞いた。
「去年の冬に先生がここまで来て半年経ちますけど、俺、未だにこの状況が夢なんじゃないかって想うことがあるんです。
 今、こんなに幸せなのに、更に上を望むのは、今の俺にはとても無理です・・・」

 途切れ途切れに、俺は言う。
 これまで安定した幸せというものに縁遠かった俺は、こうして見渡す限り幸せしか見えないような場所にいると、何だか妙に不安な気持ちになってしまうのだった。

 先生がいちいち言葉にしないまでも、俺への気持ちを揺るぎなく持って、持つだけでなく分かりやすく俺に示してくれているのは分かっている。
 それなのに俺は、そう思った一瞬後にその希望や夢に満ちた未来が崩壊してゆく光景を、瞼の裏に描き出してしまうのだ。

 今俺の前にある幸せ以上の事を、望んだりなんかしない。
 先生が俺の手の届く所にいて、俺を好きだと言ってくれていれば、それだけでいい。
 これ以上は何も、何一つ、望んだりなんかしないから、出来るだけ長く ―― 1分でも1秒でも長く、彼が俺のそばにいてくれる幸せな時が続けばいい。

 自分が東京にいた頃考えていたのとそっくりそのままの事を考えている自覚はあった。
 成長しない、出来ない自分を情けないとも思う。

 けれどそれは自分ではどうしようもなく ―― 来る日も来る日も、俺はまるで決められた時間に神へ礼拝をするかのように、そう祈り続けていると言っても過言ではなかった。
 それなのに、この上更に同棲やら籍を入れるなんて・・・想像してみることすら、俺には出来なかったのだ。

 やがてゆっくりと伸びてきた先生の手が、そっと俺の頬を撫でた。

「不安なのは、俺も同じだ。俺が感じている不安は恐らく、君が感じているものとは全く別の種類のものだとは思うが」
 やがて先生は、静かに言った。
「一緒に暮らしたから、籍を入れたから、何かが劇的に、革命的に変わるなんて事はないだろう。2人の間でどんな決め事をしようと、俺は俺で、君は君であるという事実は何も変わらない訳だからな。不安や恐れの気持ちがなくなる事もないと思うし、それをきれいさっぱり消してやるとか、そういう適当な事を言おうとも思わない。
 ただ君がどうしようもなく不安になった時、傍にいて、支える努力をし続けるという約束は出来る。君が気を回して心配しているような後悔を、俺は絶対にしないというのも、約束しよう。だから・・・ ―― 」

 だから、一緒に暮らそう。と、彼は言った。

 俺は彼の声を聞き、その指先のぬくもりを頬と耳の縁で感じながら、時間をかけて大きく息を吸って、吸ったのを同じだけの時間をかけて息を吐く。

 それから答える、「すみません・・・でも、やっぱりもう少し、考える時間を下さい」
 彼は今晩2度目のため息をついた。そして笑って言う、「全く、強情だよな、君も・・・」
 そして3度目のため息と一緒に、頬に触れていた手が離れてゆく。
 こんなのどう考えても明らかに自業自得以外のなにものでもないのに、勝手な俺はぬくもりが離れてゆくのを感じて反射的に不安になってしまう。
 こんなことを続けておいて、呆れるなと言う方が難しいだろう ――――

「呆れてないよ」
 と、彼がふいに言った。
 まるで思考を読んでだようなその言葉に、目を丸くして驚く俺を見て、彼は苦笑する。
「こういう場面で君が何を考えるかって事ぐらいは、もう分かる。
 まぁいい。逆風が吹けば吹くだけ燃える性質なんでね、地道に努力しますよ ―― 君、俺が嫌いという訳ではないんだろうしね」
 と、言って先生は同意を求めるように俺を見た。
 俺は無言で、何度も頷く。

「・・・ああもう、しかし実際、参るよな、全く・・・」
 先生は頷く俺の肩を引き寄せながら独り言のように言い、目の奥を深く覗き込むように俺を見る。
 参る、と言っても先生の声には嫌そうな色は全くない。むしろ何故か楽しそうでもあった。
 それを感じて安心しつつ、でも間近で見つめられているのが照れくさくて、顔を伏せようとした俺の顎を優しく支えるように阻止した先生が、
「ところで、せめて俺をどう思ってるかくらい、はっきり答えてもいいんじゃないか」
 と、言った。
「・・・そんなの・・・分かってるくせに」
「知りませんよ、そんな事は」、と先生は言った、「ほら、誤魔化さずに答える。ちゃんと答えない限り、絶対家には帰さない」
 冗談交じりに先生はそう言って笑い、俺も思わず一緒になって笑った。
 でも笑いながらも俺は、先生の声音の奥に真剣なものがあるのをはっきりと認識していた。

「好き、です・・・先生・・・」、車内に笑いが消えてから俺は言う、「今まで他の誰も、こんな風に好きになったことはないんです。本当に、俺は・・・先生が好きで ―――― 」
 言っている内に感情が高まりすぎて訳が分からなくなってきて、俺は手を伸ばして先生のシャツの袖を掴む。
 ゆっくりと無言で俺を抱きしめた先生の手が、壊れやすいものを慈しむようなやり方で背中を撫でてゆく。
 その手の感触を全力で記憶の壁に刻み付ける努力をしながら、俺は彼の腕の中で、そっと目を閉じた。