5 : 不吉な予言
そんな訳で、先生の言葉を借りると“俺らしい”悩みの数々に頭と心を悩ませたりもしたけれど、基本的に俺は日々幸せだった。
当たり前だ、あれほど憧れていた先生の“恋人”という存在に、自分自身がなっているのだ。
不安が消える事はなかったが、今は不安よりも幸せであるという自覚の方が、やはり強かった。
先生が“ただいま”と言って俺のマンションに帰ってきたり、キッチンに並んで立って一緒にごはんを作ったり、同じベッドで眠ったり、夜中に呼び出されて病院に向かう先生を“起きなくてもいい”という低い声に反抗してパジャマのまま見送ったり。
ひとつひとつは小さい事柄なのだろうけれど、そういう日常のひとこまひとこまが物凄く嬉しくて、俺はいちいちニヤニヤしていた。
それを言うと、先生はいつも呆れたように笑うのだけれど。
「・・・お前、いい加減にしろ、そろそろ、マジで。聞いてる方がイライラする」
陽介が様子を見に来てくれた夏の日から数ヶ月、未だに先生と一緒に住む踏ん切りをつけられないでいる俺の話を聞いて、陽介は吐き捨てるような口調で言った。
「向こうが一緒に暮らそうってそんなに言ってくれてんなら、素直に行けばいいだろうが。香椎の家の方が、職場に近いんだろう?」
「それはそうだけど・・・それが問題なんだよ。何かの拍子に職場にバレちゃったら大変じゃないか」
「そんなの、香椎はバレてもいいって言ってるんだから問題ないだろ」
「そんな簡単なことじゃない。香椎先生はそういうけど、やっぱり俺は色々考えちゃうんだよ・・・東京の病院で俺が言われたような事を考えてる人だって、少なからずいるんだから」
「んー、でもまぁそれは香椎も重々分かってるだろう。それでも、って考える香椎の気持ちが、俺は分かるけどね」
「・・・そう?」
「そうだろ。お前だって俺がどれだけ見合いやらなにやらを押しつけられて辟易してたか、知ってるじゃないか」
思い出しただけでうんざりしてくるのだろう。陽介は憮然とした声で言った。
そう、陽介はかなり最近まで、“水商売をしていたような女は医師の妻にはふさわしくない”だの、“いつか後悔するから、考え直しなさい”だのと言われて、上司の娘だの姪だのとのお見合いを勧められていたのだ。
「上司から勧められると断り辛いことも多かった。今だから言うけど、沙紀に黙って形ばかりの見合いをせざるを得なかったこともある。相手がいるって公言してた俺すらそうなんだぞ。表向きフリーの香椎なんて、すでに白羽の矢が立ちまくりだ」
「う・・・」
「う、じゃねぇ。そういう事や、お前の後ろ向きな悩みにとらわれやすい性格も考慮して、香椎は言ってるんだと思うぞ。分かったらとっとと引っ越せ。香椎がいつまで待ってるかだって、分からねぇだろ」
「そ、それは大丈夫だよ」
「大丈夫って、何を根拠に?分からないだろ、そんなの」
「だって、鍵、貰ったし」
「鍵?」
「うん。俺にあんまり言うと悩むからもう言わないけど、気持ちの整理がついたら引っ越してくればいいって。待っててくれるって、言ってたし」
と、俺が説明すると、陽介は深い深いため息をついた。
「あのな直、いいか。色恋ってのはな、果物と同じだぞ」
「・・・果物?」
「そうだ。熟した直後から ―― つまり食べ時をちょっとでも逃すと、あとは腐るだけだ。あっという間に存在価値がなくなる。お前の場合既に色々逃しまくりなんだから、そろそろきちんとしておかないと、腐るを通り越して水状になるぞ」
「ちょっと陽介、それ、例えが酷すぎ・・・」
俺が言うと、陽介は、
「酷くねぇ、これは紛れもない真実だ!!」
と大声で言い ―― 再び大きくため息をつく。
「ああもう、同情を禁じ得ないな、いい加減」
「同情って・・・先生に?」
「それしかねぇだろ」
「陽介・・・。
この前まで先生のこと凄く嫌ってたのに、やっと意見を変えてくれたんだ。嬉しいよ」
思わず話していた内容を忘れてにこにこしながら、俺は言った。
「ちがうっ」
ばん!とどこかを叩く音と共に、陽介は今度は怒鳴った。
「あくまでも俺は、一般的・相対的に見て、って話をしてるだけだ。香椎裕仁っていう一個人を許すことは一生ないからな!あいつさえいなきゃ、お前みたいな危なっかしいのが北海道くんだりまで一人で行くこともなかったんだ、忌々しい!」
陽介のその、余りに凄まじい勢いに俺は言葉を失い ―― 流石に興奮しすぎたと自覚したのだろう、陽介は大きく息をついてから、声のトーンを落ち着いたものにして続ける。
「・・・ま、そうは言っても、前ほどは香椎を目の敵にしてはいない。“中央”からそっちに拠点を移してまでお前の側にいることを選んだ時点で、闇雲にお前を傷つけようとか、からかおうとか思ってるんじゃない事くらいは分かるしな」
「・・・うん」
「だからこそ、あんまり焦らすと逆効果だぞ。誠意を見せてくれた相手には、きちんと答えるのが礼儀だ」
「うん・・・、でも焦らしてるつもりはないんだけど・・・」
「それ、俺は信じるけどな、直とは付き合い長いから。でも香椎がどこまできちんと理解出来てるかは分からねぇだろ。繰り返すが、医者って職業は誘惑が多い。後悔したくなきゃ、腹括れ。
じゃないとあっという間にまた、後悔するような事態に陥るぞ」
陽介が暗雲立ち込めるような不吉な未来を、予言のように口にした。
そんな、嫌なこと言うなよ・・・。と、そのとき、俺は(一応)笑い飛ばした ―― の、だけれど。
冗談や笑いごとじゃなく、その後陽介の予言そのままに、事件はちゃんと起きるのだった。