6 : ただ、言うだけじゃなく
先生が部長と一緒にヨーロッパで開かれる学会に行く事が決まったのは、それからちょうどひと月後の事だった。
出掛ける前、先生は俺に、
「俺がこっちに来てから、10日間も君と離れるのって初めてだな。
寂しいでしょうがお土産を楽しみに、おとなしく待っていて下さい。時差があるから、連絡入れられないかもしれないけど」
などと、人をからかうような口調で言っていた。
俺は、分かりました。と反射的に頷いたけれど、でも・・・でも本当は声を大にして言ってやりたかった。
おとなしく待っていて・・・って、俺は子供か!?
そして何より、今って設定さえすれば、海外でも携帯そのまま使えるじゃないか。
確かにヨーロッパと日本では相当時差がある上に、不規則極まりない勤務形態で働いてる俺と連絡がつき辛いのは事実だけれど、今までなんだかんだと会えない日が続いても電話はしていた。
東京にいた頃同様、つい遠慮してしまって俺からは時々しかかけられなかったけれど(かけられるようになっただけ、大進歩だと俺は自画自賛していた)、先生が病院から家に帰る道のりの間や、タクシーを待つ短い間に電話をくれる、みたいなのがとても嬉しかった。
それなのに突然2週間近く、ろくに話も出来ないなんてさも簡単そうに言われたら ―― 仕事だから仕方ないと思うものの ―― 正直、想像するだけで辛い。
こういう風に、先生は思ったりしないんだろうか・・・しないから言うんだろうな・・・。
それなら別にいい・・・俺だって平気だし・・・全然・・・。
などと、陽介の言う通り後ろ向き思考回路に突入した俺は、
「そうですね、俺もシフトが詰まっていて、なかなか電話も出来ないですし。俺の事は気にしないで、いないくらいに思って、お仕事頑張って下さい」
などと言って、先生を送り出してしまった。
以前沙紀さんに“直くんって時々、物凄くかわいくない拗ね方をするよね”と評されたことがあるけれど、それをそのまま具現化した感じだ。
自分で自分が嫌になる。が、後でどんなに後悔をしても、先生が出国してしまった今となっては意味がない。
国内と違って携帯すら通じない今となっては、謝ることすら出来ないのだ。
果てしない悔悟の嵐の中、今までにないレヴェルでこんな自分が大嫌いだと考えていた朝、携帯が震える音で目が覚めた。
起きなければならない時間までまだ余裕がある筈なのに、目覚ましの設定を間違えたかな?と寝ぼけ眼で携帯を取り上げ、ディスプレイに浮かぶ名前を見た俺は、冷水をかけられたみたいに一瞬にして覚醒し、ベッドの上に飛び起きる。
「せ、先生、ど、どうして!?今って、もうヨーロッパですよね!?」
完全に裏返った声で俺が電話に出ると彼は笑い、
「今さっき、アムステルダムの空港に着いた所なんだよ。ちょっとした暇があって携帯を操作してみたらそちらに繋がるように出来たので、電話してみました」
と、言った。
「なんですかそれ、そんなつもりがあるなら・・・」
言ってくれれば良かったじゃないですか!なんて、また可愛くない事を言いかけてしまい、俺は慌てて言葉を飲み込んだ。
先生はそういうのを全部分かっているのだと思うけれど、気を悪くする素振りもなく、
「携帯の設定を変えてもらう時間が作れるかどうか分からなかったんだけど、意外とすぐ出来るものなんだな。やった事も、やろうと思った事もなかったから、知らなかったんだけど」
と、感心したように言った。
「・・・ごめんなさい」
と、俺は言った。
今までにないくらい素直に、すらっと出た俺の謝罪の言葉を聞いた先生は、面食らったように黙った。
そして少し間をあけてから、尋ねる。
「一体何を謝ってるんだ?」
「・・・先生が言ってくれてる事や、こうやって俺の事いつも気にかけてくれてるのが嬉しくて、幸せだって思ってるのに、素直に言えなくて・・・最悪だなって、自分でも思います。ごめんなさい」
と、俺が言うと先生は、
「そんなに落ち込まなくていい」
と、言った。
「以前 ―― 東京にいた頃は君のそういう部分が分からなくて、色々見当違いな行動をしていたが、今では君のそういう、良く言えば奥ゆかしい、悪く言えばひねくれてる部分こそが面白いと思っていたりする。
“人を善悪で区別するほど愚かなことはない。人は魅力的か退屈か、そのどちらかだ”とオスカー・ワイルドも言っていた。その区別で言うと、君といると少なくとも退屈だけは絶対にしない ―― ってこれ、フォローになってないね。今更だけど」
「・・・そうですね、確かに」
俺は答え、それを聞いて先生は笑った。
一緒になって笑って、笑いが収まってから、俺は言う、「俺、もう少し素直になれるように努力しますね。自分に自信を持つっていうより、その努力をする方が近道かも知れないって、思うので」
「んん、まぁ、強硬に反対する気もないけど」、と先生は言った、「俺が言った事に対して君が返して来る答えって、“なるほど、そういう考え方をするんだ”とか、“うわ、今度はそう来ましたか”とか、結構膝を打つ的なものがあるから、その努力はほどほどってところで打ち止めにしてくれると有難いね。全くなくなってしまうと、日々の楽しみが損なわれそうだから」
なんですかそれ・・・。と俺が脱力しながらも抗議すると先生は再び笑い、それから先生はオランダの気候の話とか、機内食に出てきたスパゲティにかけられたチーズがゴムみたいだったとか、そういう話をしていて、最後に俺たちは、じゃあ、仕事頑張って。と言いあって電話を切った。
折り畳んだ携帯電話を手にベッドに座り込んだ俺は、何だか妙に暖かい気持ちになっていた。
向こうに着いたら電話をする。とか何とか、そういう約束を口にするのは簡単だ ―― ただ、言えばいいのだから。
口当たりの良い優しい言葉は、聞く方も、そしてそれを言う方も、心地良いし気分がいいものだ。
ただそれを実行するとなると、難しかったりする。
誰でもそうだけれど、日々細々と本当に色々な事がそれぞれに起こっている訳で ―― そういう中、気分の良い(あるいは暇な)時に口にした他人との約束を守るのは結構労力がいるものなのだろう、きっとそうだ。
でも思えば先生は東京にいた頃から、そういう“見てくれはいいけど、適当な”言葉は一切言わなかった。
試すような、挑発するような、そういう言葉は散々言われたけど(そしてどうやら先生からしてみると、俺も先生に対してそういう言葉を言っていた事になっているようだけれど)、先生は口にした約束は、絶対にそのまま、守ってくれる人だった。
今回のことにしたって、そうだ。
小さな事だけれど、向こうの様子(学会のスケジュールとか、なんとか)が分からない時点で適当に「電話するよ」とか、そういう事は絶対に言わない。
実際に時間を作れて、携帯電話を開いて、ボタンを押して ―― そこまでは“俺と電話で話す”という行為はあくまでも可能性であって ―― 俺が通話に出るまで、それは彼にとって不確定要素の強すぎる希望でしかないのだろう。
実際に事実になった事だけが、事実なのだ。行動だけが、全ての人なのだ。
今まで俺は、自分の努力とこの手で掴んだもの、誰かに寄りかかったりしないで、助けてもらったりもしないで、自分の力だけで立った場所しか信じないと思ってきた。信じられるのは自分だけだと思ってきた。
しかし彼の事はそのまま、全て、何の疑いもなく信じられるかもしれないと、信じていたいと、その瞬間、俺は心底感じた。
そしてカーテンから差し込む美しい朝の光の中、彼が帰国したら、今までのやり方とは全く別のやり方で彼と共にいられる気がする、と希望に満ちた思いを胸に抱いたのだった・・・ ―― 。