Echoes of Love

7 : 蘇るキーワード

 予定通りの日程でオランダから帰国した先生は宣言していた通り ―― というか、ちょっとびっくりする位細々とお土産、もといプレゼントを買って来てくれた。
 俺はそれを見ていつになく、でも無理とかでは全くなく素直に喜ぶ事が出来たし、先生もそんな俺を見て満足げな表情をしているように見えた。

 あの朝感じた決意が一体いつまで持つものなのか、自分の事ながら俺は不安だったのだったのだけれど、その後2、3日ずっとそんな感じで、先生に対して言ったりやったりした事に後悔する瞬間がなかった。
 こうしてこのまま数ヶ月彼と一緒にいられたら、そのまま一緒に暮らすことも可能かもしれないと、俺は思った。

 そんな訳で俺は、秋元さん、なんか良いことあったでしょ。などと職場で指摘される程に浮かれていた。
 カウンセリングとカウンセリングの合間に、うっかり鼻歌を歌いだしてしまいそうなほどに。

 しかしそんなある日の昼休み、食堂で一緒になった同僚のうちの一人が、
「そういえばあの噂、聞いた?香椎先生とここの副院長の娘さんとの結婚話が進んでるとかって・・・」
 と、言ったのを聞いて、そんな舞い上がった気持ちに一気に暗雲が立ちこめる。

 彼女の向かいに座っていた別のカウンセラーも激しく頷き、
「聞いた聞いた、あれ本当のところ、どうなのかな?・・・ねぇ梁瀬さん、何か詳しい情報、聞いてないの?」
 と、この病院で起こったことなら何でも知っている、情報屋みたいになっている梁瀬さんの方を見た。
「・・・んー・・・、そうねぇ、あれはあくまでも、そういう話があった、っていうだけみたい・・・」
 梁瀬さんは答え、首を小さく右に傾げる。

 それを聞いたみんなが口々に、
 あ、やっぱりそういう話があるんだー。とか、
 もっと詳しく教えて、梁瀬さん!とか、
 副病院長の娘さんって綺麗な人だったよねー。とか、
 ただ、ちょっと押しが強すぎる感じじゃなかった?とか、
 え、なになに、何の話?全然知らないんだけどー!とか・・・
 盛り上がっている中、俺は1人固まっていた。

 カウンセラーの殆どが女性なので、一緒に食事をしていても普段から俺は黙っていることが多い。
 だから俺の無反応ぶりは目立つことはなく(多分)、その点は幸いだったが ―― それにしても寝耳に水すぎて、ショックが大きかった。

「・・・詳しい話も何も、香椎先生は断ったみたいよ」
 俺の隣に座っていた梁瀬さんは、あっさりとそう言った。
「もともと、副院長の娘さんが例の ―― ほら、少し前に香椎先生、部長たちとオランダで開かれた学会に行ったじゃない?その時のレセプション・パーティーに、副院長の娘さんが顔出したらしいのね」
「つまりそこで一目惚れってこと?素敵ねぇ、ドラマとか、映画みたい。異国の地で巡り合い、恋に落ちる2人・・・」
「・・・でもどうして副院長の娘が、突然学会のレセプション・パーティーなんかに出てくるのよ」
 学校を卒業してここに配属されたばかりの宮崎さんが両手を組み、うっとりと言ったのに続いて、ちょうど同席していた外科でナースをしている三崎さんが訊いた。
「去年末から、あっちに語学留学に行ってるらしいわ。うちの医師が学会に参加するって聞いて、挨拶がてらパーティーに顔を出したらしいの。
 同行した部長の秘書から聞いたんだけど、彼女香椎先生を凄く気に入っちゃって、一人で盛り上がって、彼と一緒に帰国しようかな、とか言ってたらしくて・・・、それを聞いただけで、はっきり言ってどの程度の留学だか分かるってものよね ―― と、言って梁瀬さんは顔をしかめて苦笑した ―― とにかくそんなことがあって、彼女がお父さんである狭山副院長に香椎先生との事を頼み込んだんですって。正式にお見合いさせてくれないかって」
「昔から副院長、“いい医者がいたら娘と結婚させたい”って口癖みたいに言っていたものね」
 と、三崎さんが頷きながら言い、梁瀬さんもそうなのよ。と頷く。
「狭山副院長はここの次期院長かなんて噂がある先生だし、香椎先生が自分の娘と結婚して“身内”になってくれたら言うことないものね。
 香椎先生って若いのに浮ついた所もないし、嫌な噂も一切たたないし、医師としての腕は確かだし、今後香椎先生以上の医師がここに入ってくるか?って考えたらそうそうないだろうし・・・、だから狭山先生もこの話には大乗り気で ―― もちろん娘可愛さからってのもあるだろうけど、話を聞いて早々、香椎先生に話をしたらしいの、でも」
 と、そこで梁瀬さんは、ふと言葉を切った。
 なによもう、焦らさないで!と騒ぐ女性陣をぐるりと見回して俺のところまで視線を動かしてから、梁瀬さんは続ける。
「決めた人がいますので。って断ったって聞いたわ。でもほら、香椎先生って今まで恋人がいるとか言った事もなかったし、そういう噂すらなかったじゃない?それだけに今一つ信ぴょう性がなくて、副院長は諦められずにいるんじゃないかな」
 確かにただの言い訳っぽいしね。などと、みんなが頷く。

 まぁそう思うのも至極当然の話だ。
 香椎先生と俺の事は、完全に ―― 神経質に過ぎるくらいにひた隠しにして来たのだから。
 それにしてもなんて事なんだろう、と気が遠くなるような気分で、俺は思う。

 病院の副院長の意思や望み、
 その娘さんとの結婚話、
 それによってもたらされる医師としての地位・・・ ――――

 東京で俺を苦しめたキーワードが、もう綺麗に片付いた過去のものだと思っていたそれらが、過去からそのまま蘇るかのように唐突に目の前に現れるのを見て、俺はただただ、呆然としていた。
 普段から女性の同僚たちの話題に積極的に入ってゆくことがないとはいえ、流石に何か言わないとおかしく思う人がいるかもしれない。と思わなくもなかった。
 けれどどう努力しても、言葉が出ない。

 興味なさそうに食事をとり続けることも出来なくなり、黙りこくる俺の横で梁瀬さんは、
「・・・だからすぐに結婚っていうんじゃなくても、徐々にっていう形で考えてみてはくれないだろうか。って話をしてるみたい。
 どうやら近いうち、本当に副院長の娘さんが帰国するとかいう話も出てるみたいだし・・・そうなると暫く、ちょっとゴタゴタするかもね」  と続け、手にしていたお茶を上品にすすった。