8 : 嵐の予感
密かに静かに悶々と心配していたものの、それから1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎても、特に問題らしい問題は起こらなかった。
興味本位で無責任な噂はまことしやかに流れていたけれど、俺自身、それに翻弄されることはなかった。
それは明らかに、梁瀬さんが聞きこんでくる信ぴょう性の高い情報を時々耳に出来るお陰だっただろう。
この病院には秘書、総務、人事・・・などなど、病院内の事務方を一手に処理している部署があって、そこの責任者(この人は前述の院長と副院長の従妹だった)が梁瀬さんと仲が良く、彼女はそこから情報を仕入れているのだ。
最初は見ていて、“仲の良い友達から聞いた話を人に話して大丈夫なのか?”とひそかに思っていた俺だったのだけれど、梁瀬さんは誰彼かまわず話を聞かせている訳ではなく、口の軽い人がいる場所では先生と副院長の娘さんの噂話が目の前でされていても、一切口を開かなかった。
だから他の部署の人たちは、噂をただの噂として捉えているだけで、細かい話は一切知らなかったと思う。
ただ噂の内容が内容だけに ―― 副院長の娘さんが海外で香椎先生を見初めたというのは、確かに華々しいというか、興味を引かれる人が多い話だろう ―― そこから派生する噂だけが独り歩きしていて、
狭山副病長の娘さんは本当にオランダから日本へ帰ってきている、とか、
帰ってきてからは数日をおかずに香椎先生と会ったりしている、とか、
そして今では2人はかなり意気投合している、とか、
その様子を見て副院長のおうちでも喜んでいる、とか、
それどころか先生の事を既にお婿さん扱いしている、とか、
婚約の発表も間近だ、とか、
既に結納を済ませたらしい、とか、・・・ ――――
そんな噂まで流れていた。
けれど俺は、その噂がほぼ偽りのものであると知っていた。
他の誰よりも事情に詳しい梁瀬さんが終始一貫して、“香椎先生は話を断ったと聞いた”と断言し続けていた上に、“昨日非番だった香椎先生が、札幌駅前の喫茶店で美沙子さん(副院長の娘さんだ)とデートしていた”などという噂があったその日、先生は一日中俺のアパートにいた ―― とかいう事が少なくなかったのだ。
むろん俺は病院で勤務中だったりした訳で、その間先生が何をしていたのかは実際に見ていないし、先生が美沙子さんとデートしていた可能性が全くゼロとは言い切れない。
しかしあの香椎先生が俺のアパートで夕ご飯の用意をして、リビングのテーブルに“一人の間に読み終えた資料”を積み重ね“今読み途中の資料”とパソコンを開いておいてから札幌駅前に出て美沙子さんに会い、頃合いを見計らって慌ててアパートに戻り、いかにも“いままでここで脇目も振らず資料を読み耽ったり、届いたメールに返信したりしていました”という様子に見せかけつつ俺の帰宅を出迎える ―― なんて下らない工作や、演技をする人じゃないことくらいは分かっていた。
不安はないかと聞かれて、ないと答えたら嘘になる。
先生はその事について俺に一切何も言わなかったし、それなのに俺から面と向かって先生に問いただしたりするのも躊躇われたので、裏で何が起こっているのかは分からなかったから。
それでも俺は以前のように、“先生には俺より、医者としてのキャリアの手助けを出来る様な人を選んだ方がいいんじゃないか?”とか、そういう風にはあまり思わなかった。そういった事を全く考えなかった訳ではないものの、その割合はとても少なかった。
先生が“決めた人がいるから”と言って話を断ったらしい、という梁瀬さんの話を聞いた時、俺は単純に、とても嬉しかったから。
ただ、東京でのあの出来事をそのまま再現するようなストーリー展開をしているだけに、今後もあれと同じような展開になった時、一体俺はどうするのだろう?と考えると、どうにも心もとない気分にはなる。
と、言うのも、オランダで開かれた学会で先生に一目ぼれしたという美沙子さんの父親である狭山副院長は、実は東京から突然やってきた俺の採用を決めてくれた人で、以来何くれとなく俺を気にかけてくれた人だったからだ。
この病院は総合病院ではあるものの、それ程規模の大きな病院ではなかったため、狭山先生も度々現場で普通の医師と一緒に診察にあたっていた。
狭山先生は内科の医師だったので俺との接点はそう多くはなかったものの、廊下などですれ違う度、こっちの暮らしには慣れましたか?とか、困った事があったら遠慮せずに相談しなさい。などと言ってくれていて、その言い方はうわべだけのものではなく、明らかに本心から出ているもののように感じた。
今は香椎先生が側にいてくれるけれど、こっちに来たばかりの頃は本当に天涯孤独といった感じで心細い部分があっただけに(陽介には全然大丈夫だと強がって見せていたけど)、あの頃の俺は副院長の優しさをとても心強く、有難く思っていたのだ。
あの狭山先生がそういった優しげな態度を急変させ、東京のあのロレックスと眼鏡の副院長みたいなやり方をしてくれれば、対応の仕方もあるだろう。
でももし、頼むから身を引いてくれと頭を下げられたりしたら、俺は「冗談じゃない、そんなことは出来ません」ときっぱりとその要求を平然と撥ね退けられる自信が、いまひとつ確かに持てなかったのだ。
そのような悩み事に、時折心の片隅を囚われる日々を過ごしていた、とある午後。
午前中のカウンセリングの予約をすべてこなして遅い昼食をとり終え、数人の同僚と他愛ない会話を交わしていた時、唐突に後ろで俺の名前がフルネームで叫ばれた。
反射的に振り返ったそこには見知らぬ女の人が立っており、彼女は名前を呼ばれて振り向いた俺の方へ、尖ったヒールのかかとが床を打つ攻撃的な音と共に近寄ってくる。
突進するような勢いでやってくる女の人を呆然と見つめながら俺は、これは一体誰だったっけ?と目まぐるしく記憶の中を探る。
人の顔を覚えるのは得意な方なのだけれど、彼女の顔には全く見覚えがなかった。
精神内科関係のカウンセラーやナースではないし、他の科の医師やナースでもないように思う。
担当の患者さんでもない ―― いや、そもそも俺たちがいるのはこの病院の医師やナースなどの関係者のみが使うの休憩所や食堂やロッカールームのある、いわゆるバックヤード的な場所で、入院患者さんだろうが外来患者さんだろうが、そういう人が入って来るような場所ではないのだ。
しかし一緒に休憩を取っていた梁瀬さんが俺の前で、
「ちょっと、あれって、副院長の娘さんじゃない・・・」
と、呟くのを聞いて、俺は慌てて立ち上がる。
彼が狭山先生の例の娘さんなのだとしたら、彼女がどういう理由でここに来たのか、一目瞭然に近いものがあったから。
しかし彼女 ―― 美沙子さん ―― は俺が厄介な状況にならないよう、対応策を講じる前に、
「あなたが秋元直さんなのね。あなた、一体どういうつもりなの!?」
と、攻撃的な言い方で言い、俺を激しく睨みつけた。