10 : 偶然
これ以上はない、というようなあの悪夢の夜から数日間、稜はまさしく生きた心地のしない日々を送った。
“それなりの覚悟はあるんだろうな?”と訊ねた俊輔が、あの夜の仕打ちだけ(だけ、というには余りにも余りな仕打ちではあったが)で稜を放っておいてくれるのかどうなのか。
俊輔の行動が突拍子もなかっただけに、その後の展開の予測が全くつかなかった。
会社にはあの日1日休んだだけで何とか行っていて、稜自身は必死で普段どおりに振舞っているつもりだったが、水谷を始めとする同僚が心配そうに、
“お前、最近調子良くなさそうだな。大丈夫か?”とか、
“顔色が冴えないけど、風邪が治りきっていないんじゃないのか”とか、
“新型インフルエンザは派手な症状はなくて、だるいだけの時もあるらしいぞ。一度検査してもらえ”
などと度々言ってきていたので、全く普段どおりではなかったのだろう。
諸々の気遣いの言葉を、同僚たちが親切心から言ってくれているのは分かっていた。
しかし時間が経つにつれ、自分が俊輔の手で完全に作りかえられてしまったように感じていた稜にとって、その気遣いすらストレスになる。
変化した原因を誰かに的確に見抜かれ、指をさされて糾弾されるのではないかと、声をかけられる度に身構えてしまう。
話しかけられることに対し、恐怖すら覚えた。
けれど“あの夜”から2週間が過ぎ、3週間が過ぎ ―― 1ヶ月が経過しても身の回りに不穏な影が全く差してこないのを確認し、稜はようやくひとごこちつく。
むろん手放しで気を抜いて安心するほど能天気にはなれなかったものの、このまま大人しく時が経つのを待っていれば、いつか精神的にも肉体的にも、あの悪夢の夜の出来事や自分の醜態を消化出来る日が来るかもしれない ―― 真夜中にする切実な願いのように、稜はそう思っていた。
息が詰まるような1ヶ月を過ごし、その1ヶ月から更に1週間が経過した11月最後の金曜日。
西新宿にあるフレンチ・レストランで、稜は婚約者である木下真由(きのしたまゆ)と、1ヶ月半ぶりに会っていた。
合わせる顔がないと思う相手の最高位に名前が挙がっていた彼女とは、多忙を理由に会うのを先延ばしにしていた。
少しは落ち着いてきたとはいえ、彼女と顔を合わせるのはまだ気まずかった。
しかしどう言い訳をしてみても婚約者と1ヶ月以上会わないのは不自然すぎたので、覚悟を決めて今日の約束を了承したのだ。
「体調を崩していたって言ってたけど、もう大丈夫なの?なんだかまだ顔色が悪い気がするけれど」
と、真由は心配そうに言った。
「・・・もう大丈夫だよ。この店、照明が暗いからそう見えるんじゃないのか」
と、稜は無理やり製造した笑顔を顔に貼り付けて答えた。
そうかしら?と真由が小さく首を傾げたのでひやりとしたが、一応その言い訳で納得したのだろう、彼女は表情を明るくして店内を見回す。
「ここ、前に来たいって言っていたの、覚えてくれていたのね。嬉しいな」
「仕事仕事で、なかなか会える時間を作れなかったからね。この程度じゃ埋め合わせにならない」
「そんなの気にしないで。稜が忙しいのは分かっているもの。
ああそうだ、来月うちに挨拶に来るって言っていたの、あれもちょっと無理よね?まだ忙しそうだし」
と、言われて稜は内心ぎくりとする。
あんなことがあって、その記憶を肉体的にも精神的にも消しきれていない今は確かに、彼女の親に会う気になど到底なれなかった。
いや、そもそもあとどれくらいの時間が経てば、彼女の両親に会ってもいいという心境になれるのだろうか。
そこまで綺麗に気持ちの整理をつけられる日は、果たして来るのだろうか・・・ ――
そんな内心の葛藤が表面に表れてしまわないよう、稜は手にしたワイングラスに口をつける振りをして真由から視線を外し、
「・・・そうだな。もう少し落ち着いてからの方がいいかもしれない ―― ごめん」
と、答えた。
「いいんだってば、そうだろうなと思って、両親にはもう言ってあるから。大体初対面じゃないし、お父さんもお母さんも、忙しいのにわざわざ改めて挨拶しに来なくてもいいって言っていたし」
「 ―― 初対面じゃないから挨拶しないでいいって話にはならないだろう、どう考えても」
「うーん、別にお互いが良けれどそれでもいいと思うけど・・・、稜はそういうところ、真面目だものね」
くすくすと笑いながら真由は言い、ああそう言えば。と言って横においていたハンドバックからいくつかの封筒を取り出した。
「調べておいてって言われていた結婚式のプラン、色々集めておいたわ。私がいいなと思ったものには、付箋をつけておいた。暇が出来たときで構わないから、見ておいてくれる?」
差し出された封筒を前に、稜は黙り込むしかなかった。
平気な振りをして、愛想笑いをするにも限度というものがある。
真由の視線や表情、真新しい封筒の華やかな白さに、打ちのめされる。
一体どういう表情をして、なんと言って、差し出された封筒を受け取れというのだ?
真由にどう思われようと、これ以上はもうどうやっても耐えられないと思った稜は、無言で立ち上がろうとした。
立ち上がって、それからどうしようと決めていた訳ではもちろんなかった。
けれどとにかく黙って座っていることは出来ないと思ったのだ、しかし ―― しかし、立ち上がろうとして上げた視線の先、有り得ない人物の有り得ない姿を見て、稜は息詰まるような激しいめまいに襲われる。
食事を終え、奥にある個室から出てきて店を後にしようと出入り口へと向かう、堂々とした体躯に威厳ある雰囲気を醸し出す年配の男性。
彼が機嫌よさそうに話しかけているのは誰あろう、俊輔だったのだ。
暫し愕然としてから、稜は慌てて顔を伏せようとしたのだが、遅すぎた。
ただ戯れに投げかけられたのではない、明らかに特異な稜の視線を敏感に察知したのだろう。
それまでの和やかな表情を一変させ、鋭い動作で店内を見回した俊輔の視線が稜の姿を捉えた刹那、すうっと細められる。
凍りつく稜を数秒間眺めた後、隣にいる男性に2、3言何かを言って頭を下げた俊輔が、稜の元へとやって来る。
もう、パニックにすらなれなかった。
感情というものは振り幅が限界を越えると、却って凪ぐものなのかもしれない ―― そんな達観にも似た見解すら抱きつつ、稜は近づいてくる俊輔を見ていた。
俊輔の足取りはゆっくりとしていて、永遠に稜のテーブルへ辿り着かないのではないかと思えるほどだった。
しかしむろん店内の広さは有限なので辿り着かないなどということがある訳もなく、やがて稜の前にやってきた俊輔は足を止める。
そしてやって来た足取りと同じくらいにゆっくりとしたやり方で笑いの形に歪められた唇が言う、「こんな偶然があるとは、全く驚かされるな ―― その節は、どうも」