11 : 傾ぐ時間軸
石化されたようになっている稜にそう声をかけた俊輔は、ちらりと真由を見てから、再び稜に視線を戻す。
「 ―― なぁ、紹介してくれないのか?」
「・・・・・・こちらは木下真由さん。
真由、彼は昔の知人で、辻村俊輔」
開き直ったような淡々とした口調で、稜が言う。
「はじめまして。木下真由です」
真由は言い、にっこりと笑って俊輔を見上げた。
「こちらこそ」
口元に浮かべた笑みを深くして答えた俊輔が、テーブルの端に置かれた封筒を見下ろす。
「ああ、ご結婚なさるご予定なんですね」
「ええ」
少し頬を染めるようにして、真由が頷く。
「式はいつ頃に?」
「一応来年の秋ごろか、再来年の春頃にはって・・・ね?」
と、無邪気に真由は稜を見た。
凪ぐのを通り越して伸びきったゴムのような気分になっていた稜は、半ば自棄気味に頷く。
「・・・そうですか。その頃なら気候的にも一番いい時期でしょうね。羨ましい話だな、実に。
ああそうだ、稜、日取りが決まったら知らせてくれ。祝いの品を送ろう」
にこやかにそう言った俊輔の手が、何気ない風を装って稜の肩に置かれた。
その手の重み ―― その指にさりげなく込められた力を感じた刹那、肌がざわりと震え、全身の血液が逆流するような感覚があった。
おかしいほどに静まり返っていた稜の精神が、一瞬にして激しい怒りに満ちた炎で彩られる。
今、肩に置いているその手で陵辱の限りを尽くしておいて何を言っているのかと、大声で叫んでやりたかった。
稜の危うい精神状態は他の誰よりも一番分かっているであろうに、白々しいにもほどがある。
しかしそうして俊輔に対する怒りがある一方、こんな卑劣な男に触れられただけで飛び上がりそうなくらいに動揺し、鼓動を早めている自分が情けなくもあった。
ともすれば震えそうになる身体を精神力でねじ伏せるようにしながら、稜はきつく唇を噛む。
恐らくあと1秒でも間が空いていたなら、堪えきれずに俊輔に殴りかかっていたに違いなかったが、そんな稜の心うちなど、手に取るように察しているのだろう。
俊輔はタイミング良く稜の肩から手を外し、邪魔をして悪かった。という言葉を残してその場を去っていった。
店を出てゆく俊輔の後姿を見送った真由が、
何だか、凄く圧倒的な感じの人ね。とか、
稜と同い年なの?信じられない!とか、
どう少なく見積もっても稜より5、6歳は年上に見えたわよ。とか、
色々と言っていたが、稜はそれを半分以上聞かず ―― 聞けず、というのが正しいかもしれない ―― 暴走しかけた怒りを静めようと、必死の努力をしていた。
けれど先ほどの俊輔の低い忍び笑いやら、意味深な問いかけやら、悪辣な手つきやら ―― それらを思い返すだけで、クールダウンしようとする努力をあっさりと打ち消すような激しい怒りが、腹の底から込み上げてくる。
真由の話に適当に答えたり相槌を打ったりしながら、稜は湧き上がる怒りにまかせ、テーブルの下で握った拳に血が滲むほどの力を込めた。
あんな風に唐突にふらりと目の前に現れ、戯れのように脅され続けるのでは堪ったものではない。と思った稜は、真由と別れた後で例の六本木のマンションへと向かった。
考えるのも嫌だが、あの夜見た東京タワーとの位置関係からして、俊輔の自宅はこのマンションなのだろうと予想したのだ。
予想通り、マンションのエントランスにはお世辞にも人相が良いとは言えない雰囲気の数人の男たちがいた。恐らく俊輔のボディーガード的な役割を担っている面々なのだろう。
すんなりと通してはくれないだろうと覚悟していた稜だったが、いくつかのやり取りと電話連絡の後、エントランスに姿を現した相良に案内され、稜はあっさりと俊輔の前に案内された。
「・・・思いもかけない顔を見るもんだ。もう絶対に来ないと思っていたのに」
リビングのカウンターの上に広げたノートパソコンを前に、俊輔が言った。
入浴して間もないのだろう、濃紺のバスローブを身に着けた俊輔の全身からは水の気配が色濃く漂っていた。
再会してからこっち、きっちりと後ろに撫で付けるようにしていた前髪を下ろした俊輔のイメージが、唐突に学生時代の彼とリンクする。
先ほどのレストランで真由が“稜より5、6歳は年上に見えた”と俊輔を評したが、今の彼は年相応に見えた。
時間の軸がぐらりと傾ぐのが見える気がして、稜は投げつけてやろうと用意していた言葉を、ことごとく見失ってしまう。
「・・・おい、一体何の用だ」
琥珀色の液体が1センチばかり入ったバカラのグラスを空中でふらふらと揺らしながら、俊輔は黙り込んでしまった稜に声をかける。
「・・・ ―― し、白々しいことを言うな・・・!」、はっと我に返って稜は喚く、「何の用だか、お前が一番分かっているだろう!」
「・・・身体が疼くとかか?」、喚く稜を表情ひとつ変えずに見ていた俊輔が、にやりと笑って言う、「あの時はずいぶん感じていたみたいだし」
俊輔が自分をからかっているのは分かっていた。が、一気に顔へと血が上るのは止められない。
しかしそれを態度にまで出したら負けだと、稜は冷静な風を装って答える。
「 ―― 下らない話はしたくない。薬なんか使いやがって、恥を知れよ」
吐き捨てるように言った稜の言葉を聞き、口の端に浮かべていた笑いをひっこめた俊輔は、・・・薬?と小さく呟き ―― 次の瞬間、今度は小さく声を上げて笑った。
「・・・何がおかしい・・・!」
「いや、そんなに手放しに誉められると、流石の俺も照れる」
「何も誉めてない!」
「まぁ、お前としてはな ―― いいか、確かにあの時、薬は使った。それは認める」
額に落ちかかる前髪を、グラスを持ったままの親指で後ろに払いのけながら、俊輔が言う。
「即効性だが、それほど長くは効かない ―― 軽めの睡眠薬を、な」
その言葉を聞いて、今度こそ完全に言葉を無くした稜を、俊輔は面白そうに眺めていた。