9 : 夢じゃない
目を開けると、そこには馴染みのある光景が広がっていた。
ざらりとした質感の朝の光が満ちるなか、呆然と半身を起こした稜は、恐る恐る辺りを見回す。
「・・・どういうことなんだ、これは・・・・・・」
幾度か強く目を閉じて開いてみたり、頭を強く振ってみたりを繰り返してから ―― 何かの拍子に周りの景色が切り変わるのではないかと思ったのだ ―― 稜は呟く。
間違いようもなく、そこは経堂にある、稜が暮らすマンションだった。
何もかもが夢だったのか、と思った。
そう思いたくもあった。
そうであったらどんなにいいかとも。
しかしそれこそが夢に過ぎないことも、稜には分かっていた。
昨夜の悪夢のような俊輔との出来事が、夢や幻の類であるはずがない。
深いため息をついてゆっくりと身体を起こした稜が一番にしたのが、会社への電話だった。
昨日の今日でまともに仕事が出来るとは、とても思えない。
あんな衝撃的な出来事に見舞われたすぐ後だというのに、何よりも先に仕事のことを考えてしまう自分にうんざりしたが、かと言って無断欠勤するわけにもいかないのだ。
ちょっと風邪をひいたみたいで。と言った稜に、電話に出た上司はふぅん、珍しいな。と言っただけで、すんなりと休暇をとることを了承してくれた。
元々有給は売るほど余っているし、今現在、とくに差し迫った案件がなかったのも良かったのだろう。
謝辞を述べて電話を切った稜は着ている見覚えのない真新しいシャツを脱ぎ、それを惜しげもなくごみ箱に突っ込んでからバスルームへ向かう。
バスルーム内にある鏡で恐る恐る身体を点検してみたが、身体のどこにも昨夜の痕跡がないのが酷く忌々しかった。
思い切り痕跡が残されていても、それはそれでショックだろう。
けれどこうしてそれが全くないというのを見るのもまた、酷く焦燥感を煽る。
“ざっくりとだが、稜のことを調べさせてもらった”と言っていた彼らがこのマンションのことを知っていたのはまだ分かる。
が、陵辱し尽くされた稜の身体を清めて服を着せ、車に乗せてここまで運んできて、何事もなかったかのようにここへ放置する ―― それにかかる時間はどう短く見積もっても、1時間や2時間ではきかないだろう。
むろん数人がかりでやれば時間は短縮出来るだろうが・・・、それは余り考えたくない可能性だったし(服を着せるまでの前半部分は特に)、何はともあれその間の記憶がまるでないことが稜には恐ろしかった。
記憶を無くしている間に、自分は一体何をされたのだろう?
いや、そもそも記憶を無くす前の自分のあの醜態・・・考えた刹那、一番思い出したくない数々の激情に満ちた出来事が鮮やかに脳裏に蘇ってきて、稜は息を呑んできつく目を閉じる。が、瞼の裏に自動再生される醜態は消しようがなかった。
乱暴な所作と突き放した物言いとは裏腹な執拗で巧みな俊輔の手管と、本人の抵抗の意思を完全に無視して、更なる高みを求めて蠢いていた稜の身体。
とてもあれが自分の身に起きたことであるとは、信じられない。
そう、稜はもともと、性的に貪欲な性質ではなかった。
同年代の友人たちがある意味一日中セックスの事を考えているような若い頃も、稜はその手の話にそう強い魅力を感じなかった。
だがそれは飽くまでも他の事に対するよりも興味がなかったというだけの話で、全く興味がなかった訳ではない。
これまでに複数の女性と付き合って来た中でそれなりの経験もしてきたし、周りの友人に比べて経験が乏しいという訳でもないと思う。
現に今も取引先の秘書課に所属している女性と付き合っていて、彼女とは結婚しようという話にもなっている。
足掛け2年ほどの付き合いになる彼女との間にはめくるめくような激情もないが、それなりに穏やかで幸せな関係を築いている。
結婚してもそれは続くと確信していて、近々彼女の家に挨拶に行くつもりでもあった ―― それなのに。
それなのに、昨夜のあのざまは一体何だろう?
親友であった男に後ろを犯されて2度も極め、それだけで収まらない、収まれなかった自分。
その上でなお求めてくる男に、あれだけ激しく反応を返した後にも関わらず、更に貪欲に応えた自分の身体・・・ ―― 。
昨夜の自分の乱れようは彼女どころか、これまでに寝てきたどんな女性との関係とも比べ物にならなかった。
あんなに何度も、何度も達した経験など一度もないし、記憶を失うほど行為にのめり込む自分など、想像も出来なかった。
そこまで考えた稜はゆっくりと目を開けて、鏡に映る自分と真正面から対峙する。
鏡の向こうにいる彼が投げてくる視線はどこか、向き合う稜を激しく詰っているように見えた。
認めたら最後、どこにも逃げられないんだぞと、糾弾しているようにも見えた。
もちろん稜とて、そんな事実を認めたくもない。
けれど他の誰を誤魔化せても、自分自身を誤魔化すことは決して出来はしないのだ。
いっそのこと相手の快楽などどうでもいいという風に、もっと乱暴にされた方が良かった、と稜は考える。
そうすれば激しく感じた自分を棚に上げ、迷うこと無く俊輔を憎めるのに。
冷たい水の飛沫が降り注ぐ中、稜は深いため息をつき、力なく両手で顔を覆った。