16 : 空白の日々
その後の稜の生活は、実に単調極まりないものだった。
本当に全く何も起こらない、文字通りまっさらな日中。
その空白の埋め合わせをするかのように密度の濃い、背徳の闇に満ちた夜。
ひたすらにそれが積み重なり、繰り返されてゆく。
こんなことに何の意味があるのだと、幾度俊輔に詰め寄ったか知れない。
しかし俊輔は、稜とはろくに会話を交わそうとしなかった。
ただ深夜にふらりと帰って来ては無言で稜を抱き尽くし、意識を手放した稜が気付いた時には、もう姿を消しているのだ。
実に全く、話にならない。
いや、俊輔のせいばかりでなく、自分も自分なのだ。
燦々と陽の光が差し込むリビングのカウンターに向かって座った稜は、そう考えてため息をつく。
毎日毎日、今日こそは絶対にきちんと話をしよう。という決意を新たに俊輔を待つのだったが、その決意が形になることはなかった。
そもそも俊輔の前では、ワンセンテンス以上の話すらまともに話し切れないほどなのだ。
話を始めても、無言で寝室に引きずり込まれてベッドに押し倒され ―― それでも一応必死で言葉を紡ごうとするのだが、結局なし崩し的に俊輔の手管に陥落してしまう自分・・・・・・ ――
―― その先はどう考えても陽の光の下で思い出すのに適した情景ではなく、稜は網膜辺りに浮かんでは消える淫らな光景を振り払うように、鋭く頭を振った。
が、一度始まってしまった記憶の自動再生は止まる気配がない。
暫く努力してみた末に諦めた稜は、勝手に再生され続ける映像から極力目を逸らしつつ、
「・・・・・・大体、あいつは何であんなに強いんだ・・・」
と、ぶつぶつとひとりごちる。
10時から11時すぎに帰ってくる俊輔が稜をベッドに連れ込むのは、いつもその日の日付を越えるか越えないかという辺りからだった。
それ以降 ―― 特に行為の中盤以降は殆ど訳が分からなくなってしまうので何とも言えないのが忌々しいが、そんなに短い間で俊輔が稜を開放していないことだけは確かだ。
恐らく午前2時近いか、越えているくらいだろうと思う。
その後、行為の後始末をして稜が目覚める前に姿を消しているということは ―― 一体俊輔は、何時間眠れているのだろう?
稜ばかりが一方的に弄ばれているに近い状況ではあるのだが、だからと言って俊輔が全く疲れないとか、昼間に埋め合わせで仮眠をとっている訳でもないだろうに・・・。
「 ―― って、何で俺がこんなことを気にしてやらなきゃならないんだ・・・!」
ばん、とカウンターを両手で叩いて稜は立ち上がり、次の瞬間に虚しくなる。
最初に状況を説明しに来た三枝はあれ以降姿を見せず、現在このマンションにやって来るのは日に3回の食事を運んで来る相良と家主の俊輔だけになっている。
相良は“話すと罰金でも取られるのか?”と問いただしたくなるくらいに話さないし、俊輔は前述通りの状態で、稜は自らを相手に話す以外に話し相手がいないのだ。
その所為もあるのだろう、ここの所、独り言が多くなっているという明確な自覚が、稜にはあった。
暇で暇で仕方のない日中には、その傾向に拍車がかかっているという自覚もあった。
元々稜はテレビを殆ど見ないため、テレビを見て暇をつぶす、ということも出来ないのだ。
マンションの一部屋が書斎になっていると聞いてそこも覗いてはみたのだが、ある本は全て難解 ―― というより、読みたいと思うものが全くない。
旧ソ連の「スプートニク計画」のおぞましい真実の記録やら、アメリカで連続殺人を行って逮捕され、接見した弁護士の精神すら病ませ、自ら死刑になることを切望したゲイリー・ギルモアの呪いに満ちた生涯の記録やら、スターリンとヒトラーの交流の詳細記録やら、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートヴェンの勝手気ままな人生の軌跡やら・・・ ―― 一体どういう嗜好で集めたのかと首を傾げたくなるようなライン・ナップで、こんな蔵書をこの現状で読もうという気には到底なれない。
しかし何もしないでいると、俊輔にいいように抱かれるのを大人しく待っているだけの人間に成り下がりそうで嫌だった。
いや、好むと好まざるとにかかわらず、現実として既にそうなっているのではないだろうか、明らかに。
「・・・冗談じゃない・・・」
口の中だけで低く呟いた稜は、辺りを見回す。
部屋には電話やインターネットの類は最初からなく、直接外に助けを求めるのは不可能だった。
玄関は当然だが、窓という窓にも全て、外から鍵がかけられている。
それにここは29階にある部屋なので、仮に窓から外に出られたとしてもそこから逃げ出せる訳ではない・・・ ―― だがしかし、と稜は思う。
窓から叫んでみたらどうだろう?
そう言えば以前俊輔を訪ねてきた時に、“不特定多数の人間が出入りするマンションの廊下などで長話は出来ない”と言われた。
つまりこのマンション、更に言えば今いるフロア全体を組関係で占拠している訳ではないのだ。
それならば、希望はあるかもしれない。
叫ぶのが無理でも、ガラスを割って何か ―― この状況の異常さを訴えるメモ書きなど ―― を外に落とせば、何とかこのろくでもない状況から脱することが出来るかもしれない。
思い立ったら即行動、とばかりに稜は座っていたカウンター・スツールを手に、窓辺に直行する。
そして振り上げたスツールを思い切り窓ガラスに向かって振り下ろし ―― たその途中で、スツールが空間に縫い止められたように動かなくなる。
驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか相良が立っていて、稜が振り上げているスツールの足を片手で掴んでいた。
「椅子が壊れます」
降って沸いたかのように突然姿を現した相良に驚いて言葉を無くす稜を、当の相良はいつも通りの感情が浮かばない目で見下ろして言う。
「マグナムを撃ち込まれても通さない特殊ガラスです。椅子では割れない」
「 ―― っ、マ、マグナム・・・?!マグナム・・・って、あの、銃の・・・?」
「はい」
至って普通のことであるかのように頷く相良を、稜は怖いものを見るような眼差しで見上げる。
「・・・そんな世界にいるのが、嫌にならないのか?」
「 ―― 嫌、とは?」
「・・・この現代社会に、何も好き好んで仁侠映画を地で行くみたいな人生を選ばなくても・・・、考え直そうとかやり直そうとか、思わないのか?」
緩慢に首を振り、稜は言う。
そんな稜を、相良は心底不思議なものを眺めるような目で見る。
「志筑さんは、日本人でいることが嫌ですか」
「・・・はぁ?」
「更に言えば、地球人でいることを嫌だと思ったことは」
「 ―― そんな・・・、そんなの、考えたこともないけど」
「それと同じことです」
きっぱりと相良は言い、後は黙々と食事の用意をし、さっさと部屋を出て行ってしまう。
その厳然とした意思の漂う後姿を見送った稜は、
「いや、それ、全然同じじゃないから・・・」
と、力なく呟いた。