17 : 白と黒
そんな白と黒できっちりと染め分けられたような日々が両手の指に余る数になった、ある朝。
気だるさの残る頭を押さえながら寝室を出た稜は、リビングのテーブルにきっちりと身なりを整えた俊輔が座っているのを見て、思わず絞め殺される直前のような妙な声を上げてしまう。
つい一昨日くらいまでは、寝室を出る際には必ず俊輔がそこにいないか確認するのを習慣のようにしていた稜だった。
だがこれまで俊輔が朝までここにいた事はなかったので ―― つまりここにきて、完全に油断していたのだ。
「おはよう」
寝室とリビングのそれぞれに左足と右足を置いた状態で、後にも引けず、前にも出られずにいる稜を横目で見ながら、俊輔が言った。
「な ―― な、何をしてるんだ、お前は」
ひっくり返ったような声で、稜は訊く。
「・・・何って、見ての通り、食事をしているんだが」
コーヒーカップを手にしたまま、俊輔が答える。
確かにそれは見れば分かったが ―― 腑に落ちないのは変わらなかった。
この2週間弱、稜がいくら話しかけても口を開かなかったというのに、今朝の俊輔の普通さは一体何なのか。
不思議を通り越して、一抹の不安すら覚えてしまう。
「 ―― おい、そんなところに突っ立ってないで、こっちに来て食事にしろ。話もある」
「・・・何だよ、話って」
「まずは食事にしろ。話はその後だ」
ばさりと手にした新聞を広げて、俊輔は言った。
「先に話せよ、俺はお前と一緒に食事なんて・・・」
と、稜は憮然として反論しかけたのだが、
「いいから食え」
と、俊輔が言い、
「どうぞお座り下さい。只今お食事をご用意いたします」
と、俊輔の側に控えていた相良が言い ―― そのどう聞いても穏やかとは縁遠い2人の声に、稜は渋々テーブルを挟んで俊輔の前に座る。
言いなりになるのは癪だったが、この2人に抵抗しても時間が無駄になるだけであるというのも、この2週間ほどの期間で学んだことだった。
それでもただ大人しく命令を聞くと思われるのは心外なので、椅子に座りながらわざとらしく盛大にため息をついてやったのだが、2人とも気付いているのかいないのか、全く反応しない。
ただリビングの二酸化炭素量を多めに1呼吸分、増やしただけだ。
「 ―― それで、話って何だよ」
適当に食べられそうなものを胃袋に突っ込んでから(俊輔の前でまともに食事など出来るはずもない)、稜は訊いた。
ちらりと稜の目の前の皿の空き具合を確認した俊輔は、手にしていた新聞を無造作にたたんでテーブルの端に置く。
そして言う、「お前、そろそろ外に出たいんじゃないか」
稜は肩を竦めて見せただけで、何も言わなかった。そんな質問には、答えるまでもない。
質問をした俊輔本人もそれは分かっているのだろう、稜が口にしなかった答えを聞いたかのように話を続ける。
「それなら、出してやってもいい」
「・・・ふうん。それで?」
「それで、とは?」
「どうせただで出してくれるんじゃなく、条件があるんだろう。勿体ぶらずにさっさと言えよ」
耳かき一杯分ほどの砂糖を注意深くコーヒーに入れながら、稜は言う。
「お前も察しが良くなってきたじゃないか。悪くない」
機嫌よさそうに、俊輔は笑う。
「 ―― まぁな、確かに条件はある。ひとつだけ」
「ひとつ?」
「そう、ひとつ。
今後、俺か、俺の関係者がお前の前に姿を見せたら、問答無用で黙って付いて来い。条件はそれだけだ」
「・・・それだけ、ね」
ため息混じりに、稜は言う。
つまり、今後もこうして俊輔にいいように弄ばれろと言っている訳だ、無期限で。
ひとつだけ、と譲歩した風に言ってはいるが、拘束時間や期間が決められていないだけに厄介極まりない。
「もし嫌だと言ったら?」
「今後もこの生活が続くだけだ。俺としてはどちらでも構わないが、お前が人懐っこい家猫みたいになるのもつまらないんでね」
「・・・外に出てすぐに、警察に駆け込むかもしれない。それでも構わないのか」
人をペット扱いするな。と思いながら、挑戦的に稜は言った。
「警察か」
無感動に俊輔は首を捻り、微かに笑った。
嘲りに覆われたその笑いの裏には、明らかな苦味と ―― 気のせいだろうか、どこか悲哀めいた悲痛な影が揺れていた。
稜は思わず観察するようにまじまじと、目の前にいる俊輔を見詰めてしまう。
稜の訝し気な視線に気付いたのだろう、俊輔は素早く目を伏せて仕切り直すように鋭く咳払いをしてから、再び顔を上げる。
上げられた顔にはもう悲哀の色など欠片もなく、殊更に稜を馬鹿にするような表情だけが浮かんでいた。
「それでも俺は構わないが、お前、警察に行って何を話すつもりだ?」
訊ねられた稜は、すぐさま答えようと口を開いたのだが ―― 最初の言葉を掴み損ね、口を開けたまま固まってしまう。
その唇からは微かな呼気が吐き出され、リビングの空間には言うはずだった言葉の気配のみが漂った。
「“ヤクザに散々つきまとった挙げ句、拉致られて犯されました”」
稜の様子を暫く眺めていた俊輔はやがて、壁に書かれた言葉を読み上げるような口調で言う。
「“それで懲りればいいものを、その後再び訪れたヤクザの自宅マンションに軟禁されて、この10日ばかり、昼も夜もなく散々弄ばれていました・・・” ―― なぁ、お前、昨夜自分が何度いったか覚えているか?俺に対して言ったことや、やったことは覚えているか?俺は何もかもをはっきりと覚えているんだが、お前はそれをどこまで警察に話すつもりだ。そうだな、例えば ―― 」
「やめろ・・・!もういい・・・!」
両手を膝の上で固く握り合わせ、稜は呻くように言う。
「もういい・・・、もう、分かった・・・」
「最初から素直にそう言え」
「・・・ ―― っ、お前は本当に・・・、最低な奴だよ・・・!」
「それはどうも。
とにかく大人しく言うことを聞いて約束を守ってさえいれば、他は全て元通りだ。お前の他、周りや家族には手を出さないでいてやる」
「・・・家族」
思わず稜は怒りすら忘れて繰り返す。
稜に残された家族は、意識を失ったまま病院にいる、父だけだ。
それとも稜は仕事があるからと父の地元である神戸に父を引き取って手厚く看病してくれている、伯母を脅そうとでもいうのだろうか ―― まさか、それは余りにも意味のない話だろう。
俊輔は俺の家族の現状を、知らされていないのだろうか、と稜は考える。
それともそこまでは調べていない、ということなのだろうか・・・?
「どうした」
黙ってしまった稜に、俊輔が言った。
「・・・別に。頭を下げて礼でも言えっていうのか」
そっけなく、稜は言った。
俊輔が現状を知っていようがいまいがどうでもいいのだ。
今更俊輔に話してどうなる訳でもないし、話したくもなかった。
「 ―― 分かった、お前の言うとおりにする。ただしこっちにも条件がある」
自棄ぎみにコーヒーをかき混ぜながら稜が言い、それを聞いた俊輔は驚いたように目を見開いてから笑い出す。
「条件だって?お前、自分の立場を分かっているのか?」
「そんなの俺の知ったことじゃない。でもこの条件が叶えられないっていうなら、大人しく家猫とやらになるしかない」
コーヒーカップの縁に唇をつけて、稜は言った。
俊輔は暫く中指のつま先でテーブルをこつこつと叩きながら何やら考えているようだったが、やがてふっと息をつく。
そして言う、「・・・ふん、まぁいい。その条件とやらは叶えてやる。言ってみろ」