Night Tripper

18 : ふたつの条件

「まず、ひとつめの条件は」
「おいおい、条件ってのは複数あるのか。お前も相当ふてぶてしいな」
 呆れたように、からかうように俊輔は言ったが、話の腰を折られてなるものかとばかりにそれを無視して、稜は続ける。
「お前やお前の関係者とやらが姿を見せたら問答無用で・・・とか言っていたが、仕事中にそんな好き勝手をされるのは困る。そういうのは退社後か、休日に限定してくれ」
「・・・なるほどね。それはまぁ、気にしておこう」
 と、俊輔は右手で首筋を撫でるようにしながら言った。
「そんな適当な言い方をするな」
 開き直った稜は、強い口調で畳み掛ける。
「遊びで仕事をしているわけじゃないんだ。それすら分からないって言うのなら・・・ ―― 」
「分かった、分かった。ちゃんとカレンダーと時計を確認した上で、声をかけるようにすればいいんだろう。それで、ふたつめの条件は?」

 どうも面白がられている様子が垣間見える気がして稜は内心ムッとしたが、俊輔の顔つきは一応真面目だったので突っ込まないことにする。

「ふたつめは、今回みたいに入院だ何だと理由をつけて何日も世間から隔絶されるようなのは、二度とごめんだ」
「ふぅん」
「今はそう立て込んだ案件を抱えていなかったから良かったようなものの、営業っていうのは1日どころか1分1秒の対応の遅れで取引そのものが立ち消える場合だってあるんだ」
「へぇ」
「・・・真面目に聞く気があるのか、お前」
「もちろん、ちゃんと聞いている。1分1秒が大事なんだって話だろう?」
 飄々とした言い方で、俊輔が言った。
「・・・何でもいいが、とにかく終ったら必ず俺を家に帰してくれ。何日も音信不通になるなんて怪しすぎるし、おかしいんだよ、普通は」
 無駄だと分かっているため息をつきつつ、稜は言った。
「うーん、しかし・・・、意識を失ったお前を家に運んで行くって作業は、何度もやるとそれこそ怪しすぎるんじゃないか?まぁ、お前がそうしろと言うのならその通りにするが」
 真面目な顔つきのまま俊輔が指摘し、稜は一瞬にして顔を赤くする。
「 ―― っ、そ、そんな事にならないように自重すればいいだけの話だろう・・・!!」
「・・・お互いにって意味だよな、それ?」
 そう言って俊輔はにやりと笑い、稜は答えるのも面倒だという風にそっぽを向く。
 会話に付き合えば付き合うほど、俊輔のペースにはまってゆくだけなのだ。

「条件ってのはそのふたつか」、笑いを収めて、俊輔が訊く。
「 ―― 一応、今のところは」、憮然としたまま、稜は答える。

 その返答を聞いた俊輔は、本当に面白いな、お前は。と呟いて笑い、おもむろに立ち上がった。
 反射的に緊張して身構えた稜には目もくれず、俊輔はリビングの出入り口へと向かう。
 出掛けるのか、と思った稜は内心ほっとしたが、俊輔はドアノブに手をかけた状態で立ち止まり、
「ああそうそう、忘れる所だった。例のお前の婚約者。木下真由」
 と、さらりと言って振り返る。
「おい!真由には手を出すな!」
 椅子を蹴って立ち上がり、叫んだ稜を数秒間眺めてから、俊輔は首をすくめた。
「誰が手を出すなんて言った。話は最後まで聞けよ。
 お前が“入院”している間、病院に彼女から何度も連絡が入っていたそうだ。外に出たら、連絡してやれ」
 俊輔は言い、今度こそリビングを出て行った。
 影のように相良がその後を追い、遠くで玄関の扉が開閉し、ロックが下りる音が聞こえた。

 そこで漸く稜は大きく息をついて力なく椅子に腰を下ろし ―― 胃が鉛を押し込められたように重くなってくるのを感じて、顔を顰めた。

 一応条件を出してはみた稜だったが、果たしてどれだけ俊輔やその周りが言うことを聞いてくれるのかは神のみぞ知る、というやつだろう。と思っていた。
“望みどおり、お前を脅してやる”と言い放った俊輔が、稜の言ったことを素直に聞くとも思えなかったからだ。
 どうせ勝手放題、したいようにして、稜が困ったり怒ったりするのを見て楽しむ魂胆なのだろう。とそれ相応の覚悟もしていた。

 しかし稜が口にした約束が破られることは基本的に ―― 夜に帰れなくて明け方帰ったりはしたが ―― なかった。
 ただ1週間ぱったりと音沙汰がなかったと思うと、連続で4日間呼び出されることがあったりで、気が休まる暇がない。

 これから自分は一体、どうすればいいのか、どうなるのか。
 俊輔は果たしてこんなことをいつまで続けるつもりなのか、その目的は一体何なのか、そしていつか開放される日は来るのか。

 俊輔に聞いてもろくな回答は得られないと分かっていたので、直接聞くことはしなかった。
 が、呼び出されて俊輔の顔を見るたび、その手に触れられるたび ―― 抱かれて否応もなく乱れてしまう自分を知るたび、湧き上がる不安と疑問は大きく、強くなってゆく。

 仕事だけはなんとかこなしていたが、そんな日々をひと月半ほどやり過ごしてみてから稜は悟る ―― こんな生活がこれからも続いてゆくのだとしたら、そんなのは絶対に耐えられない、と。

 しかしそれを悟ったところで現状を打破する方法は皆無であるという事実も、厳然としてあった。
 どういう角度から検証してみても圧倒的に立場が弱いのは稜の方であり、アドバンテージは常に俊輔が握っているのだ。

 どうにかしたいがどうにもならない。という絶望感に浸りながら、その日定時に会社を退社した稜は、重い足取りで地下鉄の駅に向かっていた。

 入院騒ぎ以降、稜の身体を心配した上司は余程のことがない限り、稜を定時に退社させるようになっていた。
 同僚たちもそれを不満に思う素振りを見せるどころか、稜の仕事を手分けして手伝ってくれる程だ。
 稜としては仕事をしている間だけは諸々のことを忘れていられるので死ぬほど忙しい位の方が有難いのだが、まさかそう言うわけにも行かず、言われるままになっている状態だった。

 そう、つまり稜が姿を消していた間のことを怪しんでいる人間は、誰一人としていないのだ。それもまた、稜には恐ろしく思われた。
 それは稜の会社に提出された診断書が非の打ち所がない完璧な代物だったということであり ―― それだけ俊輔の持つ力は多岐に渡っているのだと、思い知らされている気がする。

 稜は深い深い、ため息をつく。
 ここのところ、1日に軽く千回以上ため息をついている気がした。

“ため息の数だけ、幸せが逃げてゆく”という説が真実であるのならば、この2ヶ月ばかりで一生分の ―― いや、来世分の幸せすら逃してしまっているに違いない。
 そう思いながら更にひとつ幸せを逃がして地下鉄の駅に降りて行った稜は、改札の手前、10メートルほどの所で突っかかるように立ち止まる。

 改札の手前には白いコートを着た真由が立っていて、やって来た稜を真っ直ぐに見詰めていた。