19 : 734回目のため息
俊輔に言われたとおり、真由へはあの日外に出てすぐに“一応”連絡はした。
“一応”というのは、当然ながらすぐに会いたいと主張する真由に、休み明けで仕事が詰まっていて、悪いけれど会う時間は作れない。と答え、会おうとしなかったからだ。
その後は電話をかけてこられても2、3回に1回程度の割合でしか対応せず、折り返しの電話もろくにしなかった。
悪いと思っているのは本当だったし、自分が彼女に対して本当に酷い仕打ちをしていることも分かっていた。
しかし、他にどうしようがあったろう?
以前の時よりももっと、稜は真由には、真由だけには会いたくなかった。
会うどころか、電話で話すことすら苦痛に感じる程だったのだ。
そうは言ってもこうして目の前に現れたのに回れ右して逃げ出す訳にも行かないので目に付いた喫茶店に入り、稜は1ヶ月以上振りに真由と向かい合う。
真由は目の前に座った稜を長いこと、恐ろしいほど平らな視線で眺めていた。
「身体の具合は、どうなの」
長い沈黙の果て、真由が言う。
「・・・大丈夫」
喉の奥に何かが詰まったような声で、稜が答える。
それを聞いた真由は呆れたように首を振り、ため息をつく。
「だったらどうして、連絡をくれないの?心配していたのに」
稜は何も答えずに黙っていた。
言い訳をするのも、謝るのも、何かが違う気がした。
何を言えばいいのか分からないという理由も、もちろんあった。
「ねぇ、何があったの?」
再度流れた沈黙を破って、ふいに真由が訊く。
静かに鋭い真由の指摘に、稜は内心飛び上がるほどに驚き、とっさに返事が出来ない。
構わずに、真由は続ける。
「やっぱり、何かあったのね。ここ1、2ヶ月、稜は明らかにおかしかったもの。ずっと心配していたのよ。
何があったか、そろそろ話す気にはなれない?話してくれたら私だって出来る限りの力にはなるし・・・、そこまでじゃなくても、話せば気が楽になる部分もあるんじゃない?」
噛んで含めるように、ゆっくりと真由は言ったが、それでも稜は答えられない。
衝撃は去り、何だろう、既に今のこの状況が酷く滑稽じみて見えた。
何があったか、本当のことを話してみろ、だって?と稜は思う。
過日ちらりと会った辻村俊輔という名のあの男に、もう何度も抱かれているのだと、
そこからこのまま死んでもいいとさえ思うほどの激しい快楽を覚えているのだと、
最近では呼び出されるのが以前ほど苦痛に思えなくなっている気がして怖いのだと、
それが諦めや慣れのせいなのか、彼からもたらされる強い快楽のせいなのか、分からなくなっているのだと・・・ ―― 、
そう告げてもなお、君は俺の力になって、俺を助けようと尽力してくれるのか?
そんなはずはない、そんな告白をすれば十中八九、強い嫌悪感を覚えるに決まっているじゃないか、と。
こんなのは八つ当たりに近い思考だ。
真由が心配して言っているのは、稜にもよく分かっていた。
しかしどう考えても今稜が抱えている問題は、話せば気が楽になるようなレベルの問題ではないのだ。
「それとも・・・ ―― 、もしかして、他に誰かいるの?」
黙りこんだまま答えようとしない稜に、真由が躊躇いがちに訊く。
「・・・他に誰かって?」
ちらりと視線だけを上げて、稜は訊き返す。
「誰か・・・、私の他に・・・好きな人」、と真由が言う。
「そんなのはいない」、と稜は言う。
「じゃあ・・・、なんで何も言ってくれないの・・・」
と、真由は呟き、俯いた。
稜は頭の中で真由にかけるべき言葉を選択し、構築し、それを何度も口の中だけで言ってみてから、ゆっくりと口を開く。
「少し、時間をくれないか。色々と・・・、考えなきゃならないことがある」
「・・・時間って何?考えるって、何を考えるの?」
「分からない・・・、正直に言ってしまえば、自分に何が起こっているのか、俺にも良く分からないんだ」
「何、それ・・・」
「俺は妙なことを言っている。それはよく分かっている。でも本当なんだ。自分でも分からないことを、人に説明できると思うか?」
「でも・・・、話してくれなきゃ、私はそれこそ何も分からないわ」
「それも分かっている。君には本当に悪いことをしていると思っているし、傷付けているのも分かっている、しかし・・・ ―― 」
「私はそんな台詞を聞きたいんじゃない。どうして分かってくれないの?」
稜の言葉を遮って顔を上げ、真由は言った。
「私はあなたを愛しているのよ」
小さく震える真由の白い唇と丸みを帯びた頬をいっぺんに見ながら、稜は途方に暮れる。
何を言っても平行線だった ―― こうなると分かっていたからこそ、真由には会えないと思っていたのだ。
「俺は ―― 、俺も、真由が好きだよ。ただ、今は・・・」
「ねぇ、私は今、愛しているって言ったんだけれど」
必死で言葉を選び取る稜を再び遮り、真由がどこかが決定的に歪んだ声で言った。
今度こそ稜は完全に言葉を失い、目の前に座る真由を見ていた。
今日これまでに流れたどの沈黙よりも長く、重く、静かな空白が、2人の間に横たわる。
沈黙の間にウェイターがやって来てグラスの水を換えて去って行き、両隣のテーブルに座っていた客がそれぞれに立ち去って行った。
「考えてみれば稜は、いつもそうなんだわ」
茫洋とした声で、真由が言った。
外していた視線を戻した稜を、どこか遠くの銀河を観察するような目付きで見て、真由は頬を歪める。
本人は笑ったつもりだったのかもしれないが、頬がひきつったようにしか見えなかった。
「いつもそうって ―― 何が?」
と、稜が訊く。
「最後の最後で、拒絶するの」
と、真由が答える。そして疲れきったように目を伏せる。
「もちろん誰にだって、他人を立ち入らせたくない部分はあるでしょう。それは分かっているし、そんなことで人を責めたりなんかしないわ。でも稜のは他の人のとはちょっと違う気がしていた・・・いつも」
「・・・どこが?」
稜は訊いたが、真由は小さく首を横に振っただけで稜の問いには答えようとせず、
「もういい。私もしばらく稜には会いたくない。もうこんな風に突然会いに来たりしないから、安心してゆっくり考えれば?何を考えるのかは、知らないけど」
と、言って伝票を手に立ち上がる。
そしてそれを見た稜が、俺が払うよ。と声をかけたのを無視して、一度も振り返らずに喫茶店を出て行ってしまった。
真由の後姿が雑踏に紛れて見えなくなるまで見送ってから、稜は本日通算734回目の(その位にはなっている筈だ)ため息をついて店を出る。
混雑した電車に乗って帰る気にはとてもなれなくなった稜は駅の階段を上がり、ちょうどやって来たタクシーを捕まえた。
乗り込んだタクシーの人のよさそうな運転手に、“どちらまで?”とにこやかに訊ねられ ―― 何故だろう、稜は思わず泣きそうになってしまい、何も答えられない。
困惑した様子の運転手が再度目的地を尋ねてきたのに、とりあえず適当に流してください。と答え、稜は車のシートに深く背中を沈めて車窓から外を眺める。
夕方の混雑した町並みは人と車で溢れ返り、その全てがはっきりとした目的を持ってどこかへ向かっているように見えた ―― いや、実際にそうなのだろう、と稜は思う。
こんな風に致命的に行き先を見失っているのは、自分くらいのものなのだ、きっと。
これから自分は、どこに向かえばいいのだろう?
これから自分は、どこに行こうというのだろう?
自らに何度問いかけてみても、答えは杳として定まらない。
陸に引き上げられた船のように、もうどこにも行き場所がないという気がして、稜は力なく目を閉じた。