20 : 冒される精神
「こんなところで、一体何をしている」
かけられた声に顔を上げると、そこには険しい顔をした俊輔が立っていた。
六本木のマンション前の植え込み脇に座った稜は、見下ろす俊輔を見上げたまま、無言で口元まで覆っていたマフラーを引き下ろす。
「・・・・・・今日は呼んでいないぞ」
と、俊輔が言う。
「呼ばれないと来ちゃいけないのか」
と、稜が言い ―― 俊輔が珍しく、言葉に詰まるような様子を見せた。
「・・・・・・何か用なのか」
ゆっくりと5カウントするくらいの間を開けてから、俊輔が訊いた。
「用がないと来ちゃいけないのか」
先ほどと全く同じ口調で、稜が訊き返した。
その返答を聞いた俊輔はひとつ肩をすくめてから、踵を返す。
少し躊躇った後で稜は立ち上がり、10歩ほど遅れてその後を追う。
マンションのエントランス内で仰々しく頭を下げて出迎える男たちの間を歩き抜ける間も、相良が扉を開けて待っていたエレベータに乗り込んで29階に上がるまでの間も、到着した29階の廊下で俊輔を出迎えた面々に“今日はもう出掛けないから下がっていい。”という指示を出している間も、俊輔は稜を見もしなかった。
傍らに稜がいることに、気付いていないようにすら見えた。
しかし10名ほどの部下 ―― こういうのを舎弟というのだろうか、と稜は思った ―― が瞬く間に姿を消し、ただ一人残った相良が部屋の扉を開けたところで俊輔は振り返り、
「どうでもいいが、入るなら抱くぞ」
と、言った。
その挑戦的な物言いを聞いた稜は、思わず苦々しい声を上げて笑ってしまう。
「今更そんな見得を切られてもな」
「いつかの冗談が真実になったか?身体が疼くとか?」
「・・・別にどうとでも・・・、でもまぁ、迷惑なら帰る」
そう言って躊躇う気色なく立ち去ろうとした稜の上腕部を、伸びてきた俊輔の手が捉える。
「伊織」
「はい」
「出てくるまで、俺は不在ってことにしておけ」
そう言い放った俊輔は、相良が“承知しました”と答え終える前に稜を部屋に引きずり込み、扉を閉めた。
暗闇の中、乱暴に壁へ押し付けられた稜が抗議の声をあげる前に、その唇が壁に押し付けられるやり方よりももっと乱暴なやり方で奪われる。
「・・・っ、ん・・・ ―― っ!!」
圧倒的な力で押さえ込まれ、激しく角度を変えて続く口付けに、悲鳴すら飲み込まれてゆく。
壁の中に塗り込められてしまいそうな荒々しさに恐れを感じた稜は、俊輔の両肩を押し返すようにして抵抗するが、その身体はびくともしない。
稜の喉元と肩をそれぞれに捉えていた俊輔の骨ばった手が、曲線を確かめるようなやり方で稜の肩を伝い下りてゆき、軽い衣擦れの音と共にコートとジャケットが床に落とされる。
次いでワイシャツがはだけられ、薄闇にさらけ出された稜の肌に、俊輔の唇が噛み付くような勢いで押し当てられた。
その激しい所作、唇の熱、忍び込んで来た右手が直に肌を這い回る感覚、押し付けられた身体から漂う薄い煙草の匂いとコロンのラスト・ノートの最後のひとひら、交差する激しい息遣い ―― そしてぴたりと押し付けあった下腹部から湧き上がる、飢えるような官能の気配。
絡まり合い、もつれあったそれらは、まるで質の悪いドラッグのように稜の精神を冒してゆく。
壁に擦られた背中が痛いとか、
押し倒された床の冷たさとか、
そもそもここが玄関であるとか、
そんなことは、気にならなかった。
そんなことはもう、どうでも良かった。
稜が求めていたのはただひとつ、何もかもをなぎ倒し、焼き尽くし、破壊し尽くす俊輔の手だけだった。
それが苦痛を伴うものであろうと、刹那なものであろうと、何もかもを、ひとときの間だけでも忘れさせてくれるのであれば、それだけで良かった・・・ ―――― 。
声に出さない稜の望みを酌んだかのような激しい行為の果て、俊輔は稜を抱き上げてバスルームに向かった。
そしてまだ半分意識が戻っていない稜をバスタブに放り込み、湯を張ってゆく。
湯量が腰の辺りまで達したところでようやく意識がはっきりとしてきた稜は、外で身体を洗っている俊輔の姿を直視と横目の半ば、少し直視寄りの視線で眺める。
“あの顔とあの身体じゃ、こっちは勝ち目がないよな。天は二物を与えないって、ありゃあ嘘だ、えこひいきしまくりじゃないか。”
学生時代、俊輔を見た友人たちがそんな風にぼやくのを耳にしたのは、1度や2度ではきかない。
当時の稜は“確かに良く出来た奴だよな”程度に思っていたのだが、かつての友人たちの言葉の意味を、今になって本当の意味で理解した。
うっすらと陽に焼けた肌、少し危うい色気を含んだ精悍な顔立ち、筋肉がつきすぎも、つかなすぎもしない、均整の取れた身体、それらを土台とした揺ぎ無い自信の気配 ―― こういう男が女性を強く惹きつけるものであるというのは稜にも理解出来たし、こういう男を男は羨ましいと感じるものであろうと、確かに思う。
そうだ、だからこそ、そんな彼がどうして自分とこんな事になっているのかが、稜には分からないのだ。
俊輔の現状が現状だけに敬遠する女性も勿論いるだろうが、それでもいいという女性も絶対にいるだろう。
それなのに・・・ ――――
「見張っていないと、怖いか」
ふいに俊輔が言い、突然声をかけられた稜はバスタブの中でびくりと身体を震わせる。
いつの間にかしっかりと俊輔に視線を注いでしまっていたのに気付いた稜は、慌てて顔を伏せる。
「身体を洗っている間くらいは、何もしやしない。そんなに怯えるな」
降り注ぐシャワーの飛沫に目を細めた俊輔が、苦笑と共に、そう言った。