Night Tripper

3 : 忘れるべきこと

 唐突に目の前に現れた男に、スマートではあるが有無を言わさないといった雰囲気で近くの喫茶店に連れて来られた稜は、伺うように目の前に座る男を見ていた。

 有限会社辻商事 代表取締役副社長 三枝裕次郎。

 マンション前で渡された、手触りの良い厚手の台紙に凝った型押しと銀箔が施されている名刺には、そう印字されていた。
 一歩間違えばただ金をかけただけの下品な代物になりそうだが、恐らく力のあるデザイナーにでも注文しているのだろう。デザイン性が高く、下品な雰囲気は微塵も感じられない名刺だった。
 この不況の最中、代表取締役のものとはいえここまで贅を凝らしたものは珍しい。こんな高級感漂う名刺は、長く営業職についている稜ですら見たことがなかった。

「 ―― さて。早速本題に入らせていただきますが・・・」
 注文したコーヒーが双方の目の前に置かれ、ウェイトレスが下がっていったのを見送ってから、三枝が口を開く。
「その前に先ず、確認させてください。
 あなたがしようとしている“本題の話”とは、あれは俺の知っている辻村俊輔ではなく人違いだとか、そういう方向性の話でしょうか」
 三枝の言葉を断ち切るように、稜が言った。
「もしそうなのであれば、申し訳ないですが俺にとって聞く価値のない話になるので、帰らせていただきます」
「ほう。どうしてです?」
「あそこで会ったのが俊輔であるという確信が、俺にはあるからです」
「・・・なるほど」
 平坦な声で答えながらも、三枝は内心舌を巻いていた。

 相手の出方と会話の呼吸を的確に読み、機先を制するセンスが常人のそれとは比べ物にならない。
 しかも控えめにしているとはいえ、三枝がわざと醸し出して見せている“堅気ではない”雰囲気に対峙した上で、これなのだ ―― 内心はどう感じているのかは知る術もないし、作り物めいて見えるほどに整った稜の顔立ちが、飄々と動じない雰囲気を更に際立たせているというのもあるだろう。
 だがその表情に怯えたり腰が引けているといった気配が微塵も滲まないというのは、誰にでも簡単に出来るものではない。

 どう対応しようかと一瞬の半分ほどの間悩んだ後 ―― 三枝は伸ばしていた背をソファーの背もたれに沈め、
「やれやれ。さすが日本トップクラスの総合商社で、抜群の営業成績を誇っていらっしゃる方だけはありますね。参りましたよ、志筑さん」
 と、言って両手を上げた。
「・・・俺のことを、調べたのですか?」
 と、稜が柳眉を寄せて訊ねたのを受け、三枝は頷く。
「ええ、ざっくりとですが」
「どうしてそんなことを?」
「こちらにも色々と事情がありまして。無理かもしれませんが、悪く思わないで下さい」
「・・・分かりました。とりあえずそれはいいです。
 しかし不思議なのは俊輔だ。どうして彼が自分でここに来て、俺に会おうとしないんですか?」
「それがあなたの為だからです」
 すうっと目を細めて、三枝が言った。
 意味が分からない、とでも言うように微かに顔を歪めた稜を射るように見据え、三枝は続ける。
「確かにあの日あなたが会ったのは、“辻村俊輔”という名の人物で間違いはありません。しかし今現在の彼は、あなたの知っている“辻村俊輔”ではない。人違いだと言ったのもあながち嘘でないというくらいに、別の人物なのです」
「・・・三枝さん、俺は最初に言ったはずです。そういう類の詭弁を聞く気はない、と」
「これは詭弁ではなく、紛れもない事実です。あなたの知っている“辻村俊輔”はもう、この世には存在しないのです」
「意味が分かりません、それが詭弁でなくて、何を詭弁だと言うんですか?そもそも・・・」
「志筑さん」
 と、稜を呼んだ三枝は、声を荒げたわけでも、特別低くしたわけでもなかった。
 しかしその声には全ての反論や横槍を完膚なきまでに封じ込める、強い気が漲っていた。
 口をつぐんだ稜の目を真っ直ぐに見ながら、三枝は言う。
「あなたは頭の良い人だ。おまけに度胸もある。そんなあなたに適当な嘘や誤魔化しは効かないと思ったからこそ、私は可能な限りの真実をお伝えしました。
 そしてここからは私が個人的にあなたにご忠告差し上げたい」
「 ―― 何です・・・?」
 と、稜が訊く。
「忘れたほうがいい」
 と、三枝が答える。
「無論、思い出を全て捨て去れとは言いません。しかし過去は過去として、時折懐かしく思い返すだけに留めておく方が良いこともあるのです。今の生活が大事なら、悪いことは言わない。今回の出来事はなかったものとして、忘れなさい。忘れるべきです」

 噛んで含めるように言う三枝の声には明らかに、真摯さの欠片が紛れ込んでいた。
 返す言葉を見失った稜は、静かに立ち上がった三枝を無言のままに見上げる。

「いいですね。二度と我々の前に姿を見せないで下さい」

 最後にそう念を押した三枝は、一礼の後にその場を立ち去った。