21 : 途切れた言葉
「・・・べ、別に・・・、怯えてなんかない、けど・・・」
視線を伏せたまま、ぶつぶつと稜は呟く。
面白いものでも見るかのようにその様子を眺めていた俊輔が、
「・・・そうかな、本当に?」
と言って立ち上がり、稜と向かい合うようにバスタブに身体を入れてくる。
幅はそうないものの長さはあるバスタブは2人で入っても狭くはなかったが、何かされるのではと稜は反射神経的に身構えてしまう。
それ見たことか。とでも思っているのだろう、俊輔は微かに笑った。
しかし口に出しては何も言わず、伸ばした手で棚の上に置いてあった煙草のケースを引き寄せ、取り出した煙草に火をつける。
紫煙が天井に向けて立ちのぼってゆく様を黙って見ていた稜がやがて、躊躇いがちに口を開く。
「・・・なぁ・・・、どうして、こんな事をするんだ・・・?」
尋ねられた俊輔は、ちらりと視線だけを稜に流してから、鼻で笑う。
「身体が疼くって、お前が自ら来たんじゃなかったか」
「そういうことを言っているんじゃない、分かっているくせに・・・、ごまかさないで答えろよ」
と、稜は言った。
だが俊輔はその質問が聞こえなかったかのように黙々と紫煙を吸い込んでは吐き出す作業を繰り返すだけで、何も答えようとしない。
これ以上いくら待っても答えは返らないと諦めざるを得ない程度の時間を空けた後、稜は微かなため息をつく。
「やっぱり荒川が言っていた通りなのか ―― 家に強引に連れて行っていたのが、気に障っていた?」
「・・・何の話だ」
突然飛んだ話題について行けなかった俊輔が、眉根を寄せて顔を上げる。
「荒川って、覚えてないか?」
「誰だ、それ」
「・・・中学時代、俊輔が引っ越してしまうまでの1年ばかり一緒の学校で・・・、大学の一般教養のクラスで偶然再会したんだって言っていた。
何度か一緒に飯食いに行ったりしたじゃないか」
「覚えてない」
少しも考える様子なく、俊輔は答えた。
にべもないその回答からは、稜のする質問などにまともに答える気はないのだという俊輔の意志が透けて見えて来るようだった。
けれどだからと言ってここで諦めていたら何ひとつ前に進まないのだからと、何とか気持ちを奮い立たせて稜は続ける。
「・・・とにかく・・・、その荒川に言われたんだよ、お前が突然姿を消した頃。
家庭に色々複雑な事情があるせいで、俊輔は他人の家に招かれたりするのを凄く嫌っていたって・・・自慢されてるみたいに感じたんじゃないかとも言っていた。
だから俺に何も告げずに姿を消しても、全然おかしくないって」
迷った末に聞いたままを稜が口にすると、俊輔は顔の下半分だけを歪めて笑った。
「それはまた、実に興味深い解釈だな」
「・・・違うのか?」
「さぁ、どうかな」
他人事のようにそう言った俊輔の口調に、稜は顔をしかめる。
「どうかなって・・・何だよそれ」
「何だも何も、その荒川とやらの話を信じるのなら、信じればいいじゃないか。どうせお前は、俺の言うことなんか信じないんだろう」
「そんな言い方をするのは止せよ」
「真実だろう」
間髪入れずにあっさりと俊輔が言い、決めつけられた稜は緊張を忘れて俊輔の方へ身を乗り出す。
「本当に全く変わっていないな、お前は。いつもそうやって周りに何ひとつ説明しないで、勝手に自己完結してしまうんだ ―― 突然姿を消した時だってそうだった。
なぁ俊輔、頼むから ―― 一度だけでもいいから、お前の言葉できちんとお前のことを説明してくれないか。俺は聞くから、ちゃんと・・・!
そうすれば俺は・・・、俺だって・・・ ―― 」
と、そこまで言ったあたりで稜の言葉は徐々に弱々しくなり、やがて尻つぼみになって消えてゆく。
稜が言葉を重ねる毎に俊輔の表情が険しくなってゆくのに気付いたせいもあったし、自分の気持ちと紡ぐ言葉の行く先を見失ったせいもあった。
俺だって ―― その後自分は何を言うつもりだったんだろう、と稜は考える。
ついさっきまで、その先には確かにはっきりと、手に取れそうな程に明確なものが息づいていた予感はあった。
だが肝心な瞬間に、それは春の淡雪のようにあっさりと、綺麗さっぱり消えてなくなってしまったのだ。
その消え方は余りに完璧で、今となってはそこに明確なものがあった事実さえ、疑わしく思えるほどだった。
「俺だって ―― の、その先は何だ」
稜の焦りを更に増させるように、厳しい口調で俊輔が訊く。
もちろん稜は答えられず、俊輔の顔に浮かぶ剣呑な気配がその濃度を増した。
「・・・例えば俺が、お前のことだけは荒川とかいう男や他の人間のように忘れてしまえなかったのだと、そういう唯一の存在だったお前が再び目の前に現れて、もうとても諦められなくなったのだと、どうしても手元に引き寄せずにはいられなかったのだと ―― そう言ったとしたら、お前はどうする気なんだ。
今まで俺がして来た仕打ちを水に流して、全て許すとでも言うのか」
押し殺した怒りが漲る声で、俊輔が問う。
それでも尚、稜は答えられない。
「 ―― いいか、お前にひとつ忠告しておく。
その年齢になったのなら、そろそろ自分がする話の起承転結 ―― せめてその概要くらいは見極めてから口を開く癖をつけろ。何でもかんでも、思ったことを見境いなく口にして、話の行き先を見失って許されるのはせいぜい中学までだ、見苦しい。
お前は昔からそうだ ―― 誰よりも、何よりも、ちっとも変わっていないのはお前の方だ。俺はな、昔からずっと、お前のそういうところが」
と、そこで俊輔の言葉が、唐突に途切れた。
それは先ほどの稜の、話の行き先を見失って徐々にフェイド・アウトして行くというようなものではなく、言うなれば俊輔の電源コードを誰かが予告なしに、無理やり引き抜いてしまったかのような、理不尽なまでに唐突な途切れ方だった。
面食らった稜は言葉を失い、目の前の俊輔をまじまじと見詰める。
対する俊輔はしばし引っ込みがつかない風に稜を睨み据えたままでいたが ―― ふいに鋭い舌打ちと共に手にしていた煙草を音高くバスタブの縁に押し付けた。
そして無言のまま荒々しく立ち上がってバスルームの扉を開け、開けた扉を閉めもせずにバスルームを出て行ってしまう。
一連の事の成り行きをただ茫然と見ているしかなかった稜は、半分口を開けたような状態でその俊輔の後姿を見送った。
そして激しく波打っていたバスタブの中の水面が静まったところでいつの間にか止めていた息を吐き、
「何なんだよ、あれは・・・もう、意味が分からない・・・」
と、弱々しくひとりごち、ずるずると背中を滑らせるようにして深く湯に身体を沈めた。