22 : 懐かしいひと
その後稜がバスルームから出てみると、既に俊輔の姿はそこになかった。
終電ももうないし。などと言い訳をしつつ明け方まで帰りを待ってみたのだが結局その日俊輔は帰って来ず、その夜以降彼からの呼び出しはぱたりと途絶えた。
1週間ほどは、稜もそれほど気にはしていなかった。
2週間したところで流石に少し気になりだし ―― 1ヶ月が過ぎる頃になると、呼び出しがないということに不安めいた気持ちすら覚えだす。
呼び出されたいわけでは、もちろんない。
俊輔との普通でない関係に苦痛を覚えていなかったと言ったら嘘になるし、元の生活に戻れるものなら戻りたいというのが正直な気持ちでもあった。
だがこうして何の予告もなしに手を引かれると、今後一体どうしていいものやら、判断がつかないのだ。
恐らくあの夜、自分はどこかで俊輔の地雷を踏んでしまったのだろう。
そのせいで、俊輔はもう二度と稜には会いたくない、会うのを止めようと考えたのかもしれない。
―― などと推測してはみるものの、当然ながらそれは飽くまでも推測でしかなく、それが真実であるかどうか、稜には判断が出来ない。
時が経って“これはもう大丈夫だろう”と安心してからあんな生活を復活させられるのは考えただけでもきついし、そもそも呼び出しがいつ再開されるのかという不安を常に心の片隅に抱きつつ生活してゆくなど、耐えられそうもなかった。
「・・・ったく、こんな風に唐突に消えられても、意味が分からないって言うんだよ・・・」
俊輔の呼び出しが途絶えてからちょうど2ヶ月が経過したその土曜日、近所の本屋に向かいながら、稜は苛々と呟く。
しかし本当のところは、稜にも分かっていた。
俊輔の考えが分からないのはもちろんそうだが、それより何より分からないのは自分の気持ちである、ということに。
どうして自分はあの日、最終的に俊輔の元に向かったのだろう?
それは“あの日”からずっと ―― 更に言えばタクシーの運転手に俊輔のマンションの所在地を説明している間もずっと、稜の胸の中にあった疑問だった。
あの時、稜が何もかもを忘れさせてくれるものを求めていたのは事実だ。
だがそれが俊輔の手によってもたらされるものでなければいけないという理由は、どこにもない。
他の誰でも良かったのであれば、文字通り誰か他の人間の手を求めれば良かったのだ。金さえ出そうと思えば、方法は他にいくらだってあったはずだ。
が、稜はそうしなかった。
多少の躊躇いを覚えつつも俊輔の元へ向かい、その手にこの身体を委ねることを、自ら選択したのだ。
それは何故なのか ―― 何を意味するのか。
幾度考えてみても思考のコネクタはひたすらに混線するばかりで、はっきりとした回答へ続く道筋に電気信号が伝わってゆかない。
本人にも理由の分からない稜の意味不明な行動が、俊輔やその周りを警戒させたのだろうか?
何か裏があるとか、罠があるとか・・・?
「・・・まさかな・・・、俺が俊輔たちに対抗出来る訳がないし・・・」
と、呟いた稜がため息をついた時だった。
稜の行く手、2メートル程離れた車道脇に黒いベンツが音もなく横付けされるのを見て、稜は足を止める。
やはり何ひとつ終わりになった訳ではなく、悩んだり考えたりする必要はなかったのだ。と稜は複雑な思いを抱いたのだったが ―― 停車したベンツの助手席から出て来て、
「志筑稜さんですね」
と、稜に訊ねた40過ぎくらいの年代の男に、見覚えはなかった。
車の磨き込まれ方といい、スーツの着こなし方といい、言葉や態度から発せられる雰囲気といい、間違いなく俊輔の同業者であろうと思われるのだが、思えば俊輔の関係者はベンツには乗っていなかったな、と稜は考える。
車にはあまり・・・というか殆ど興味がなく、車などブレーキがきちんと効いて前に進めばそれでいい。と半ば本気で考えている稜だった。
だから普段は、誰がどんな車に乗っていようがどうでもいいと思っていたし、その手の話題に興味を抱いたことはない。
しかしそんな稜でも“ヤクザといえば黒塗りのベンツ”というステレオタイプな刷り込みは頭にあって、俊輔が使用している車に一台もベンツが含まれていないのを意外に思ってはいたのだ。
「・・・そうですが・・・あなたは?」
「これは大変失礼を致しました。申し遅れましたが、私はこういう者です」
と、男は稜に向かって胸元から取り出した名刺を差し出す。
差し出された名刺にはただ一行だけ、目に痛いほどの黒々とした印字で、
“稲葉連合会 監査役補佐 宮内大樹”
と、あった。
裏を返してみたが、裏には何も印刷されていない。
そっけない名刺の雰囲気や怪しげな団体名や役職名からして、いかにも普通ではないと思わせる。
裏表合わせて5秒ほどの間その名刺を眺めてから、稜は顔を上げて正面から宮内大樹という名の男を見た。
「実は私の上の者が、是非とも志筑さまにお会いしたいと申しておりまして。
突然のことで大変申し訳ないのですが、ご同行願えませんか」
それは丁寧だが否とは言わせないという色を帯びた、裏社会に属する人間独特の口調だった。
こんなことが分かるようになってしまったと内心苦々しく思う稜だったが、それは面に表さずに聞き返す。
「・・・上の者、とは?」
「辻村俊輔の母親です」
宮内が答え、稜は驚くのと同時にこみ上げてくる懐かしさを抑えられない。
高校から大学に至るまで、俊輔は一貫して何よりも母親を大切にしていた。
他のどんな約束よりも母親を優先させる俊輔を見て“ああいうのを真正のマザコンって言うんだ”などとからかう者もいたが、俊輔を比較的近いところで見ていた稜は、彼のやり方がマザコンなどという域に留まらず、いささか神経症的であるとすら感じていた。
しかし大学に上がったその年、俊輔に引き合わされて彼の母親に会った稜は、この母親であれば、俊輔のようなやり方をするのも納得が出来ると思ったものだ。
名前は確か美幸と言った ―― 辻村美幸。
俊輔のような年齢の息子がいるようには到底見えない、弱々しく儚げな、どこか少女めいた雰囲気のある女性だった。
人目を惹きつける程に美しかったが、黒目がちの双眸にはふとした瞬間に切なげな慟哭の影がたゆい、それが見る者の保護欲を激しく掻き立てるようなところがあった。
その後幾度となく顔を合わせる中で、彼女が儚いだけでなく芯に凛としたものを持っていることを稜は知ったが、それでも最初の少女めいた印象は消えなかった。
母親と会えば、俊輔が何故あんな風な境遇に堕ちてゆくことになったのか、その理由が聞けるかもしれない。と稜は思う。
俊輔にされた仕打ちの数々についてはとても話せないだろうが ―― 彼女は稜が訪ねて来るたびにとても喜び、稜を本当に可愛がってくれていたのだ、とてもではないがあんな話は出来そうもない ―― とにかく例え何も得るものがなかったとしても、稜自身が純粋にもう一度俊輔の母親に会って、話をしてみたかった。
「ご同行願えますね」
稜の決心を正確に察したのだろう、宮内が言った。
「・・・分かりました、行きましょう。こちらにも、是非お会いしてお訊きしたいことがあります」
きっぱりと稜は答え、促されるままにベンツの後部座席に乗り込んだ。