25 : あなたは違う
稜が連れて行かれたのは、横浜市内の高級住宅街の奥にある大きな屋敷だった。
そう、それは“家”というより“屋敷”というのが正解だろうというような広大さで、屋敷の周りを取り囲む庭には手入れの行き届いた数多くの庭木が植えられ、池やらせせらぎやらがあり ―― 世の中には上には上があるものだ。と、稜は案内されて歩く長い廊下から見える景色を感心して眺めていた。
だがやがてたどり着いた離れの小さな茶室の奥に座り、部屋に入ってきた稜を見上げ、
「突然こんな遠くまでお呼び立てして、申し訳ありませんでしたわね。どうぞ、お座りになって」
と言い、床の間の前の席を指してあでやかに微笑んだ女性を見た稜の柳眉が、微かに寄せられる。
稜をここまで案内してきた宮内がそこで静かに去って行ったということは、今目の前に座る女性が宮内が言っていた所の“稜に会いたがっている上の者”であり ―― つまり当然、そこにいるのは俊輔の母親でなければならないはずだ。
しかしその女性は、稜がこれまでに一度も会ったことも、見たこともない女性だった。
「あなたは一体、どなたですか?」
と、稜は訊いた。
「あら、宮内は説明しなかったの?なんて失礼な・・・、わたくしは辻村俊輔の母ですのよ」
と、女性は答えた。
「いいえ、あなたは違う」
きっぱりと首を振って否定した稜を見上げた女性の両目が、すっと細められる。
「 ―― もしかしてあなたは、俊輔さんの実母を・・・、美幸さんをご存知なのかしら」
やがて、ゆっくりとした言い方で女性が言う。
彼女は微笑んだままだったが、その微笑みが突如、暗く淀んだ影を纏ったような気がした。
「・・・ええ」
静かに、稜は頷く。
「・・・そう・・・。
それではあなたが俊輔さんの古い友人だというのは、本当の話なのね。別の報告では現在の俊輔さんの恋人らしいとも聞いたのだけれど」
「 ―― 俊輔とは高校から大学半ばまで、同じ学校でした」
女性の指摘に思わず引き攣りそうになる頬を驚異的な意思の力で封じ込め、稜は答えた。
“恋人”だって、冗談じゃない。
脅されて、散々いいように振り回されているだけだ。
そう訴えて、助けを求めてみるという選択肢もあった。
しかし稜の勘が ―― この10年間、営業先で色々な相手と商談する中で培われた勘が、そうすることを激しく拒絶していた。
これまで数々の取引先と渡り合ってゆく中で、稜は取引会社やその営業担当と会ったときに感じた第一印象を何よりも大事にしてきた。
例え小さな会社でも第一印象が良ければ多少強引にでも話を進めたし、どんなに有名な大会社であっても、第一印象が悪ければ深入りはしなかった。
そうして傍から見れば何の根拠もなく取引の進退を決めてゆく稜を、上司はうさんくさそうに見ていたものだし、新人の頃は叱り飛ばされたりもしたものだ。
勿論最初は意志を曲げて上司に命じられるまま取引を進めたこともあったが、稜の判断が一度も外れないのを見て、そのうち上司は何も言わなくなった。
今では営業関連の誰もが、稜のやり方に異を唱えることはなくなっている。
その稜の第6感とも言えるであろう第一印象が、目の前にいる女性に心を許すべきではないと警告していた。
特に俊輔についての話は、余りしない方がいいような気もした。
穏やかに見えても鋭く観察するような稜の視線からさりげなく顔を逸らし、
「・・・確かにわたくしは俊輔さんの生みの母ではありません。でも二十歳頃からの俊輔さんをお世話させていただいた ―― いわゆる義母で、駿河麗子と申します」
と、説明した女性が、改めてにっこりと稜を見上げる。
「・・・さぁ、そんなところに立ったままでいらっしゃらずに、お座りになって。お茶をひとつ、いかが?」
「 ―― はぁ・・・」
と、曖昧な返事をした稜は、少し躊躇ってから指し示された席に腰を下ろす。
稜の動きと連動したように奥の襖が開き、静々と入ってきた年若い女性が稜の前に和菓子を置いた後で俊輔の義母の前に控える。
「・・・あの・・・、すみませんが、お茶の作法など全く知らないのですが」
駿河麗子と名乗った俊輔の義母が流れるような動作でお茶を立てているのを見ていた稜が、躊躇いがちに言う。
稜の言葉を聞いて、麗子は茶筅の動きは止めずに軽い声を上げて笑う。
「千利休の時代、茶道は現在のように格式ばったものなどではなく、楽しめばいいというような、気軽なものであったと聞きます。
それに俊輔さんのご友人ならば、家族も同然ですもの。そんなつまらないことはお気になさらないで、気楽にして下すってよろしいのよ」
「・・・はぁ・・・」
「そのお菓子も、京都からたった今しがた届きましたの。甘いものは、お嫌い?」
「いえ・・・、そんなことはありませんが」
「でしたら、よろしければ召し上がって下さいね」
「・・・どうも・・・、ありがとうございます・・・」
薦められるままに稜はお菓子を口にしてみたが、確かにそれは上品な甘さの、相当に美味しいお菓子だった。
その後出された深い翡翠色をしたお茶も、飲みなれない稜でも感心するくらいのいい味だった。
和菓子や抹茶などを全くと言っていいほど口にしない自分がそう感じるのだから、余程良いものなのだろう。と稜は思う。
「・・・ところで、俊輔さんは最近、どうなさっているのかしら」
稜がお菓子とお茶を口にするのをじっと眺めながら、麗子が訊いた。
「さぁ・・・、分からないです」
これは正直なところを言っても良いだろうと思いながら、稜が答える。
「最近、会っていないものですから」
「まぁ・・・そうなの?忙しいのかしら」
「・・・どうでしょうか・・・、ここ2ヶ月ほど全く会っていないし連絡もないので、本当に分からないんです」
「そんなに長いこと、友達に連絡もしないなんて・・・」
小さく顔を顰めて首を振り、麗子が苦笑する。
「不義理な友人だこと。志筑さんは、そういうことはお気になさらないの?」
「そういうこと、とは?」
「2ヶ月間も連絡がないなんて・・・特に今は直接会わなくても携帯電話とかメールとか、便利なものがあるでしょう?
わたくしのような年齢になっても、友人とはちょくちょくメールをしたり、しますもの」
「・・・そうですね、女性の場合は確かにそういう・・・」
と、稜が答えかけた、その時だった。
廊下の向こうが唐突に騒がしくなり、やがて荒々しい足音と声が茶室に向かって近付いてくる。
麗子は平然として動じない風だったが、連れてこられた経緯が経緯であるだけに緊張して腰を浮かしかけた稜の背後の襖が、物凄い勢いで開けられる。
荒々しく襖を開いて部屋の入り口に姿を現したのは、今の今話題に上っていた、俊輔その人だった。