26 : 震える心
「・・・あらあら、おもてなしの最中だというのに・・・失礼じゃありませんか、俊輔さん」
俊輔の姿を見た麗子は猫なで声というのに近い甘ったるい声で言ったが、上目遣いで俊輔を見る目は凍えるような白く冷たい光を放っている。
対する俊輔の麗子を見下ろす眼差しには、ふつふつと煮えたぎる憤怒の色があり ―― それらの真逆の温度を孕む視線がぶつかり合い、部屋が一気にいたたまれないような険悪な空気に満ちた。
ぶつかり合う2人の視線のちょうど中間地点にいる稜は、半分腰を浮かした状態のまま身動きすら出来ない。
しかし緊迫した空気はそう長くは続かず ―― おそらくは数秒のことだったのだろう ―― やがて俊輔がゆっくりと一歩、部屋へと足を踏み入れる。
麗子は泰然自若としていたが、その前に座る年若い女性の右手が目にも留まらぬ動作で着物の胸元に差し込まれた。
吐き気がするような緊張が、電流にも似た速度で空間を走る。
ちらりと麗子の前の女性に目をやった俊輔が、それには構わずもう一歩足を踏みだそうとした ―― その時、後から追い付いてきた三枝が俊輔の腕を強く掴んで引いた。
「大変ご無沙汰をしております、姐さん」
やって来た歩調や俊輔の腕を激しく掴んだ手の持ち主と同一人物のものとは思えない、落ち着いた調子で三枝が言った。
「・・・本当に久しぶりだこと、裕次郎。一体何年ぶりかしら・・・もう顔も忘れるところだったわ」
と、口元を着物の袖口で押さえた麗子が忍び笑い、
「確かちょうど8年振りになると思いますが ―― 私としては、8年が80年になっても姐さんを忘れるには短すぎます」
と、返した三枝も笑う。
そこで俊輔は強く腕を振って三枝の手を振り払い、2歩半で稜の横に立って乱暴にその腕を掴み上げる。
そしてもう麗子になど目もくれず、稜を引きずるようにして部屋を出て、そのまま足早に廊下を歩いてゆく。
背後で三枝と麗子がまだ何やら言い合っている様子ではあったが、すぐにその内容は聞き取れなくなった。
「何をされた」
屋敷の敷地から出てすぐに、俊輔が訊いた。
毎度のこととはいえ、その自分勝手にも程があるやり方に反発を覚えた稜は、無言で腕を掴む俊輔の手を振り払おうとする。
「何をされたんだと訊いている。聞こえないのか・・・!」、苛々した様子を隠そうともせずに、俊輔が繰り返す。
「・・・お前にされた以上に酷いことはされてない」、俊輔から頑なに顔を逸らしたまま、ぶっきらぼうに稜が答える。
「ふざけたことを言うな!」
「ふざけてない、本当の話じゃないか、大体な ―― 」
「うるさい、まず訊かれたことに答えろ!」
低く怒鳴った俊輔が掴んだ稜の腕を激しく揺さぶり、これ以上は我慢ならないとばかりに稜は俊輔を睨み上げる。
「そっちこそ何なんだよ、ふざけんな・・・!」
「 ―― 志筑さん」
2人から数十秒ほど遅れて屋敷から出て来て俊輔の斜め後ろに控えていた三枝が、そこで静かに口を挟んできた。
いつもどおりの単調な口調ではあったが、その目にも切迫した真剣さがあり、稜は更に俊輔に投げつけようとしていた言葉を飲み込む。
「これは大変重要な話ですので、とりあえずあの家に入ってからのことを、初めから話して下さいませんか」
「・・・別に特別、何もされていません。ただあの・・・女の人と話をしていただけで」
「何か口にされませんでしたか?」
「・・・はぁ・・・?
ええと・・・、お茶とお菓子は出されたので・・・」
「食ったのか」
稜が言い終えるのを待たず、咳込むように俊輔が訊く。
「・・・まぁ・・・勧められるままに半分くらい ―― って、触るな!」
憮然としながらも答えかけた稜だったが、途中、頬や額に触れて来る俊輔の手指を鋭く振り払う。
小さく舌打ちを漏らしてから俊輔はまるで猫の子を扱うように稜の襟首を掴み、静かに近づいてきて停車したリンカーン・コンチネンタルの後部座席にその身体を放り込む。
そして稜が抗議の声を上げる前に乱暴に扉を閉めて三枝と2、3言葉を交わし、車を回って稜の隣に乗り込んできた。
「 ―― 道明寺へ。急げ」
助手席に座った三枝が、運転席にいる男に短く命令する。
「はい」
答えた男が、素早くギアを切り替え、車を発進させる。
もう何が起こっているのか予測すら出来ない稜だったが、既に口を利くのも面倒になっていた。
どうにでもなれと自棄になっているのもあったし、訊ねてみたところで彼らがまともに答えてくれるとは限らないのだという諦めの気持ちもあった。
ともすれば零れ落ちそうになるため息を噛み殺し、稜は細かく車線変更をしながらスピードを上げる運転席の男を見るとはなしに眺めていた。
車に押し込まれて見た瞬間から気になっていたのだが、男のネクタイの締め方はどこか妙だった。
緩くもなく、きちんと締めてもいない。つまり、ひどく中途半端なのだ。眺めれば眺めるほど、気にかかってくる・・・ ――
ぼんやりそんなことを考えていた稜の隣に座る俊輔が突然、運転席の背もたれを後ろから蹴り飛ばした。
激しい音がし、その唐突で乱暴な俊輔の所作に稜は心底うんざりとさせられる。
嫌味のひとつでも言ってやらなければ気がすまなくなり、首を曲げて隣を見た稜は ―― 俊輔の顔が明らかに普段の、再会してからの自信に満ちた傍若無人な彼とはまるで別の人間のようになっているのを見て、言葉を失う。
それは目に見えぬ何かを恐れ、我を失う寸前のような表情に見えた。
必死で平静を装って不安を表に表さないように努力しているのだろうが、それはとても成功しているとは言い難かった。
少なくとも稜には何故か、湧き上がる不安に止めようもなく震える俊輔の心の振れ幅までが、しっかりと手に取るように分かった。
「なにをちんたら走っていやがる。絞めるぞ、貴様」
呻くように俊輔が言い、刹那、ハンドルを握る男の顔から一気に血の気が引いてゆく。
「若」
助手席に座る三枝が視線を前方に固定したまま諌めるように俊輔を呼んだが、それを無視して俊輔は続ける。
「殺されたくなきゃ、もっと急げ・・・!」
「 ―― 若・・・」
「スピード出せって言ってるんだよ、分かんねぇのか!」
「若頭!」
そこで初めて声を荒げた三枝が、後ろを振り返る。
「落ち着いてください、もう制限速度の2倍近く出ています。これ以上は急げない」
最後、噛んで含めるように言った三枝の言葉を聞いた俊輔は、ちらりと横目で稜を見てからぎゅっと顔を顰め、
「畜生・・・」
と、小さく呟いた。