30 : 駆け引き
俊輔が宣言した通り、それから稜の周りにはどこに行くにしても必ず、俊輔の関係者の影がつきまとうことになった。
常にはっきりと、その存在を感じるわけではない。
しかしふとした瞬間、普通ではない特異な視線が自分に注がれていることに、稜は気付かされる。
昼休み、混雑した店に入った時には俊輔の周囲で見たことのある男たちがいくつかのテーブルに分かれて座り、さりげなく稜を見ていることもあった。
同僚たちがそれに気付いているかどうかは分からない。
行き帰りに会社の近くまで車で送られている稜の姿を見て、どう思っているのかも分からない。
聞いてみる訳にもいかないし(逆に理由を尋ねられても答えようがない)、聞く気もなかった。
とにかく稜はそれらには全く気を払っていない風を装い、普段通りに淡々と仕事をこなすよう努めた。
或いは稜のその態度が、周りに何事かを尋ねる隙を与えなかったのかもしれないが ―― 何にせよ、そんなことは稜にとって、どうでも良かった。
稜が心に決めていたのはただひとつ、ほんの些細なことでもいいから、忌々しい俊輔に自分が黙って言いなりになっているつもりはないのだと知らしめてやること、それだけだった。
組織力の高い(のだろう、恐らく)ヤクザの包囲網から簡単に逃れられるとは思っていなかったし、例え逃げ出せたとしても長期的にその手から身を隠せるとも考えていなかった。
逆らったら何をされるのかも、よくは知らない。
けれど何をしようとされようと現状以上に酷い状況に追い詰められることなどある訳がない、と稜は思っていた ―― 少なくとも、全てをばらされても構わないと思い切っていた稜にとって、怖い事などそうそうなかったのだ。
だがむろん俊輔は、そんな稜の内心をほぼ正確に把握していたし、対する稜も俊輔に自分の考えが把握されていることを承知していた。
あの日から稜は何をされても俊輔とは言葉を交わさなかったが、帰って来る度に問答無用とばかりに稜を抱く俊輔が、行為後、面白そうに自分を見ているのは分かっていた。
往生際が悪い奴だと呆れているのだ ―― そんな俊輔が隙を見せることは決してないだろう。
そして時折稜の周りに姿を見せて監視の指示を出しているらしい相良も、それは同じだ。
どんなに従順な態度を見せ続けようが、どれほど待とうが、この2人は稜に隙など見せはしないだろう。
稜が狙っていたのは、俊輔と相良以外の男たちの油断だった。
俊輔が稜との関係を誰彼構わず言いふらしているとは思えないし、つまり殆どの舎弟たちが“意味も訳もなく、しがない会社員の監視をさせられている”と考えているのではないかと、稜は睨んでいた。
上からどんなに言われても、理不尽だと思う命令に真剣にはなれないものだ。
少なくとも常に全力は注いでいられないだろうし、稜が大人しくしていればしているだけ彼らの気は緩んでゆくだろう、そうだとしたら ―― 機会は必ずやって来るに違いない。
稜は息を詰めるようにして、その一瞬を待っていたのだ。
「志筑」
その日。
作り終えた企画書の最終チェックをしていた稜を、上司が呼んだ。
「はい?」
と、顔を上げた稜に向かって、上司はちょっと、という風に手招きする。
何をばらされようがもう構いやしない。と思い切ってはいたものの、条件反射でひやりとした稜だった。
が、立って行った稜に上司が切り出した話は、
数年前に稜が取引を纏めた会社との間が、少々揉めている。
稜が引継ぎをしてフォローを任せた担当営業の日野(ひの)の対応の仕方が気に障ったのか、現在先方が頑なになってしまって話にならない。
向こうの社長は稜の名前を口にしていると言うから、悪いが今から行って話をしてみてくれないだろうか?
と、いうものだった。
それを聞いた稜は内心苦笑する ―― 上司が口にした「株式会社三和物流」は中堅の物流会社であり、何を決めるにせよ社長が出てくるという典型的な親族会社だった。
社長の渡邊常雄(わたなべつねお)は悪い人間ではないのだが頭が固く、一度へそを曲げ始めると厄介な男だった。
が、こちらが毅然とした態度でひとつひとつ話をしてゆけば最終的には多少の無理を言っても納得してくれるので、やり方次第では扱いやすい社長でもあった。
それはフォローを頼んだ後輩営業の日野(ひの)にも伝えたのだが、彼が最近の新入社員に多い“自分に非があろうがなかろうが、謝るのが嫌い”というタイプの人間であると常々感じていた稜は、引継ぎをしていた時点から“これはいつか揉めるのではないか”と予想していたのだ。
「 ―― 分かりました。すぐに行ってきます」
感じたことは一切顔に出さず、稜は頷く。
「悪いが、頼む。
ところで、自分の仕事は大丈夫なのか?今、急ぎの仕事は?」
「週明け、新規取引先に往訪してプレゼンを行う予定ですが、資料はほぼ出来ていますので問題ありません」
「そうか。それなら三和物流に行った後、今日は直帰していい。日野だけ報告に帰社させろ」
パソコン右下のデジタル時計の数字を確認する素振りを見せて、上司が言った。
壁の時計の短針が3を少し過ぎた部分を指しているのを確認した稜は頷いて礼を言い、デスクに戻って2、3の仕事を片付けてから、会社を出て三和物流のある赤坂見附駅へと向かった。
「今日はすみませんでした、志筑さん」
三和物流のオフィスビルから外へ出たところで、日野が言った。
「いや、とにかく大事にならなくて良かった」
稜と日野の姿を見てビルの陰からさりげなく姿を見せた2人組みの男たちを視線の端で認識しながら、稜は答えた。
「しかし尊敬しますよ、志筑さんが顔を出した途端に渡邊社長、ころっと態度が変わりましたもんね」
「・・・あの社長にはああいう対応をしておけば大方は大丈夫なんだ。俺でなくても同じだよ」
「そういうもんですかね・・・志筑さんが言ったとおりにやっているつもりなんですが、中々上手く行かなくて」
「まぁ、最初は仕方ないさ。コツは徐々に掴める」
「・・・そうだといいんですが・・・」
ぶつぶつと言う日野を適当にあしらいつつ、稜はさり気無く通り沿いのみずほ銀行ATM内にある時計で時刻を確認する。
―― 4時48分。
意外に早く先方の機嫌が直ってしまったので、帰社できないこともない時間だった。
しかし ――――
会社の終業時間は一応17時15分だ。
恐らく後ろの2人組みは稜がこれから帰社すると思っているだろう。稜が定時に帰宅したことなど、殆どないのだから。
それにここ数日、相良の姿も見ていなかった。
これは、チャンスかもしれない。
いや、きっとチャンスなのだろう。
そう思った稜は脳裏で素早く考えを巡らせて計画の大筋を構築し、一瞬にしてその計画に細かく肉付けをしてゆく。
「 ―― 少し早いけど、これで帰らせてもらおうと思う」
赤坂見附駅に続く階段を足早に下りながら、小さな声で稜が言う。
「分かりました。今日はありがとうございました」
降り立った地下道を右に曲がりながら、日野が言う。
「気にするな。この借りはいつかしっかり返してもらうつもりだからな」
稜が笑い、日野も笑った。
ゆっくりと地下道を歩きながら、稜は後ろに全神経を集中させた。
足音は聞こえて来ない ―― すぐそばに、監視の男たちはいないらしい。
これは本当にチャンスだ。と思った瞬間、数十人の学生の集団がどっと銀座線の改札口から出て来て稜と日野の周りを取り囲み、通り抜けてゆく。
本当に本当に、これは千載一遇のチャンスだ。
思わず口元が綻びそうになるのを抑え、それじゃあ。と短く日野に挨拶をした稜は、学生たちの波に紛れるようにして素早く身体を反転させて銀座線の改札口に背を向け、半蔵門線へと続く階段を駆け降りた。