Night Tripper

32 : 狂った磁場

「志筑さんを見失った?」

 赤坂にある辻商事本社ビルの最上階、社長室と隣接した部屋でパソコンに向かっていた三枝が、かかってきた電話に言った。
 三枝のデスク前に据えられたソファに座っていた永山は、その声を聞いて手にしたファイルから顔を上げる。

「・・・撒かれたのか?」
 機械的に2、3の指示を出して電話を切った三枝に、永山が尋ねる。
「・・・そうらしいですね」
 面倒くさそうにひとつ肩を竦め、三枝が答える。
「何時に、どこで?」
「赤坂見附駅構内で、4時50分頃の話だそうです。1時間程前になりますね」
「何だ、そりゃあ。てめぇの庭で撒かれてりゃ世話ないだろうが、情けねぇな、ったく・・・」
 顔をしかめて独りごち、鋭く舌打ちを漏らした永山が、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出す。
「・・・待って下さい、豪さん」、永山が携帯電話を開いたのとほぼ同時に三枝が言った、「若には、知らせなくても良いと思います」

 携帯電話のボタンに指をかけたまま、永山は視線だけを上げる。
 上げられた視線は鋭かったが、三枝は気にせず続ける。

「豪さんがどういうお考えでいようと、私はやはり、あの男は出来るだけ早く若から切り離すべきだと思います」
「・・・志筑稜に何かあっても、見殺しにすると?」
「彼は日本一と言っても過言ではないような有名商社の、エリートサラリーマンですよ。彼が何らかの騒動に巻き込まれたりすれば、間髪入れずに警察が動く。若との関係がはっきりと知れ渡っていない現段階で、どこの誰が彼に手を出すなんて無謀な真似をするでしょうか。  少なくとも私なら、そんなことは絶対にしない」
「・・・お前なら、な」
「それに万一手を出されたとしても、こちらが動かなければそう痛い目に合わされもせず解放されるでしょう。
 この間だって、彼は全くの無傷だったではありませんか」
「若頭が騒いでただけで」
「そうです。
 あの男の存在がこれ以上若の中で大きくなる前に、手を打つべきだ ―― 母親が死んだときの若の様子を、忘れましたか?再びあんなことがあれば、若はもう二度と立ち直れないでしょう。我々は今更、そんな爆弾を抱え込む訳にはいかない」

 そこで三枝は口をつぐみ、デスクの上に置いた手をゆっくりと組み合わせた。
 永山は手にした携帯電話を開いたり閉じたりしながら暫く黙って考え込んでいたが、やがて軽いため息と共に口を開く。

「お前が言うことも一理ある。それは認める。あの志筑稜って男の存在は、確かに俺たちにとって諸刃の剣だ ―― だがなぁ、三枝」
 何事か言おうと口を開きかけた三枝を手を上げて止め、永山は正面から三枝を見据えて続ける。
「お前はこれ以上、あいつにあんな乾いて飢えきったような目をさせ続けて、平気でいられるのか。いや、そもそもこのままじゃ、あいつはどっちにしろ駄目になる。遅いか、早いかの違いだけだ」
「そうだとしても、志筑稜は駄目です。彼が若といることを承諾するとは到底思えません。彼は心底若を憎んでいるでしょう」
 吐いて捨てるように三枝が言い、対する永山は両目を眇めて鼻で笑う。
「・・・お前はこれだけ長いこと俺の片腕をやってきたくせに、まだ俺って人間が分かってねぇんだな。
 いいか、俺が問題にしているのは、若頭が志筑稜を欲っするかどうかだけだ。あいつが志筑稜を欲しいと言うのなら、例えどんな手段を使ってでも志筑稜をあいつの側に縛りつけておいてやる。いらねぇのなら、捨てる。志筑稜の気持ちなんて、知ったことじゃない」
「それこそ机上の空論ですよ、どこをどう考えても危険すぎます。私は絶対に反対です」

 きっぱりと三枝が言い、流れた中くらいの沈黙の間、2人は睨み合うような格好で向かい合っていた。
 が、やがて永山がこの場には明らかに不釣り合いな笑い声を上げ、沈黙を破った。

「・・・俺は志筑稜にきちんと会ったことはないが、これは是非とも会っておかなきゃならねぇな。
 若頭だけじゃなく、お前までをもこうやって狂わせちまうとは ―― どれだけ強力な磁場の持ち主なんだか、空恐ろしいな」
「・・・どういう意味です、それは」
「どうでもないさ。志筑稜に関することで頭がおかしくなっちまってるのは、若頭だけじゃない。お前も同じだって意味だよ ―― そもそもの最初の部分から、お前はとんだ思い違いをしている」
「何を言うんですか、私は別に・・・ ―― 」
「じゃあ訊くがな、万一志筑稜の身に今のこの状態を少しでも知っている“誰か”の手が及んだ場合 ―― 相手はまず手始めに、誰を脅そうと考える?」
 鋭利な刃物で断ち切るような勢いで三枝の言葉を遮り、永山が訊く。
 その問いかけに、三枝の表情がさっとこわばる。
「若頭はわざわざ言われるまでもなく、お前の考えなんざ百も承知だろうよ。そして長年お前を片腕として使ってきた俺のことも、同じように考えるに決まってる。
 もし志筑稜のことで誰かに何らかの脅しをかけられたら、あいつは暢気に俺たちに話を通したりしない。120パーセントの確率で、一人で動くぞ ―― 大丈夫か三枝、しっかりしろよ!」
 最後、激しく声を荒げた永山がソファの前のテーブルに置かれた灰皿を蹴りとばす。

 派手な音がして、その音に驚いた舎弟がノックの音と同時に部屋に飛び込んでくる。
 顔を出した彼らに志筑稜の行きそうな場所を全て押さえるようにと細かい指示を出した永山が、改めてじろりと三枝を見る。

「それで、若頭は今どこにいるんだ」
「・・・16時から大久保で、旭会の会長と会っていらっしゃいます。そろそろ終わられる頃かと・・・」

 喉の奥に痰が絡んだような声で三枝が答えた ―― その時。

 デスクの上の電話が、けたたましく鳴り出した。
 それはむろんいつもと同じ呼び出し音であったが、永山も三枝も、それが悪い電話であると直感していた。

 電光石火の勢いで受話器を取り上げた三枝が、相手の第一声を聞いた瞬間に呻くような声を上げて強く目を閉じる。

「何があった」
 デスクに近づきながら、永山が問う。
「相良からです。若が突然、姿を消したと」
「相良、いいか、よく聞け。今からすぐに人をやるから、お前はそこを動くな」
 三枝の手から受話器を取り上げた永山が、ゆっくりとした口調で電話線の向こうにいる相良に語りかける。
「 ―― いいか相良・・・、おい、聞いているのか?分かったら返事をしないか。おい相良・・・・・・相良! ―― 畜生っ、あいつ、切りやがった・・・!」
「・・・まさか、こんな早く手を打ってくるなんて・・・ ―― 」
 永山が使っているのとは別の電話で、大久保近辺にいる男たちを集めさせるように指示を出した三枝が、呟く。
「先方もそれだけ焦ってるんだろう ―― このタイミングからして、相手はどう考えてもあの女だ」
「おそらく」
「だったらとにかく相良を止めろ。あと志筑稜が本当にあっちの手に落ちているのか確認させろ、それと・・・」
「佐藤の親父さんと組長に連絡、駿河麗子と取り巻きの最近の動向を調べて、その関連場所を全て洗い出して、全ての場所の状況を調べさせておきます ―― それでいいですね」
 立て板に水を流すように三枝が言い、足早に部屋を出ようとしていた永山がドアノブに手をかけたところで振り返って頷く。
「ああ、それでいい。幹部と舎弟はすぐに動かせるようにしておいてくれ ―― 俺は本家に行って、話を通してくる」
「分かりました ―― どうかお気をつけて」
「誰に向かってものを言っているんだ」
 口の端だけで笑って見せた永山が、部屋を飛び出してゆく。
 部屋に一人残った三枝はその後姿を一瞬の半分くらいの間見送ってから、気を取り直すように小さく頭を振り、再びもどかしげな手つきで受話器を取り上げた。