33 : 息絶えた携帯電話
辻商事本社内がそうして慌ただしくなった、その30分程前。
新宿の外れにひっそりと構えられた店で旭会会長との会合を終えた俊輔は、店の裏口近くに停車する車に向かっていた。
「噂で聞くよりも落ち着いた方ですね」
ゆっくりとした足取りで車へと向かう俊輔の後ろを歩きながら、相良が低く呟いた。
「お前、彼と会うのは初めてだったか?」
着信がないか調べた携帯電話をスーツの内ポケットに戻しながら、俊輔が訊き返す。
「はい」
「・・・どの噂について言っているのかは知らないが、人の噂ほど信用出来ないものはない。でもまぁ、色々やってきた男であることは間違いないだろうけどな」
と、俊輔は唇の左端を歪めた。
「俺は元々、三和会系の組とはどうもそりが合わない。でもあの旭会とだけは昔から懇意にしているんだ、覚えておけ」
「分かりました」、と相良が頷く、「それで、この後はどうなさいますか?」
「永山に話がある。珍しいことに今日は本社にいるらしいから、赤坂に帰る ―― おい、あれ」
運転手がドアを開けて待っていた車に乗り込もうとしたところで、俊輔は相良の背後に視線をやった。
その時ちょうど、人通りの絶えたその道を緩慢な速度で進んでいた老夫婦の夫が乗った車椅子が、歩道と車道の段差に車輪をとられて車道に倒れ込んだのだ。
妻らしき老女が必死で車椅子を起こそうとしていたが、車道に倒れ込んだ夫の乗る車椅子はびくともしない。
「手伝ってやれ ―― お前も」
相良と、次いで運転手に、俊輔が命令する。
ちらりと周りを見回してから相良が足早に老夫婦の元に向かい、運転手がそれを追う。
その後ろ姿をちらりと見やってから車に乗り込もうとした俊輔の胸元で、携帯電話が震えた。
「 ―― やくざ者が老人を助ける。とても美しい光景ね。涙が出そう」
回線が繋がるのと同時に聞こえてきた声に、俊輔は微かに眉根を寄せて背筋を伸ばし、数十メートル向こうの相良たちと老夫婦に視線をやる。
「・・・つまり、あれはわざとか」
と、俊輔が不機嫌な声で訊く。
ふふふ、と駿河麗子が忍び笑う。
「声を出さずにすぐに車を離れて、すぐそこの路地を右に曲がりなさい」
「あんたに言われると、左に曲がりたくなるんだが、どうすればいいだろう」
「下らない冗談を言っていないで早く私の言う通りにしないと、あの子が大変なことになるかもしれないわよ」
「 ―― “あの子”?」
「志筑稜くん」
さらりと言われて、俊輔は黙り込む。
再び、駿河麗子がくすくすと笑った。
「どう、右に曲がりたくなった?」
「・・・さて、どうだろう」
俊輔は言い、相良たちを見る。
おそらく何らかの最もらしい理由で引き留められているのだろう、相良たちが戻ってくる気配はまだない。
「・・・そっちにあいつが囚われているっていう証拠は?」
「証拠?証拠がいるの?」
さも驚いた、という風に駿河麗子は言う。
「じゃあ証拠が届くまで時間をおきましょうか?ところで提出する証拠は髪の毛とかでいいのかしら?それともやっぱり、指がいいのかしら」
「・・・いい加減にしろよ、うちの基本方針を忘れたのか、それとも組を潰すつもりか?
今まであんたの所業を大目に見てきた佐藤会長も、さすがに黙っていないぞ」
「・・・あらあら、組を潰すつもりかなんて、あなたからそんな言葉を聞くなんてね ―― びっくり」
「・・・何もかも承知の上って訳か。それで ―― 」
「時間稼ぎはそこまで。言うことを聞くの、聞かないの。
確かに証拠はないけれど、宮内があの子の身柄を押さえていることは紛れもない事実よ。ついでに教えてあげるけれど、宮内が向かっている先には金山もいる。あの子、いかにも金山が好きそうな子だと思わない?」
駿河麗子のその言葉に強く唇を噛んだ俊輔が、静かな足取りで車を離れ、指示通りに通り沿いの脇道を右に入る。
「・・・そう、それでいいのよ。いい子ね」
ねっとりと絡み付くような猫なで声で、駿河麗子が言った。
「・・・どこから見ている?」
ぐるりとあたりを見渡して、俊輔が尋ねる。
「秘密よ。でもちゃんと見ている。見えている。
いいこと、これから先少しでも不審な動きをしたら、二度と生きた志筑綾には会えないと思いなさい。ポケットに手を入れたり、携帯電話のボタンに指をかけたりしたら、そこで全てが終り ―― 分かる?」
「・・・ああ」
「 ―― そのまま道を進んで。・・・・・・2つ目の路地を今度は左へ入るのよ」
黙って言われるまま、俊輔は道を進んでゆく。
「その突き当たりを右 ―― 少し行った所に廃ビルがあるわ・・・そこに入って。
・・・・・・暗いけれど、そこには誰もいないから警戒しなくても大丈夫よ。そこはただ、通り抜けるだけ」
崩れかけたような廃ビルの前で流石に少し躊躇った俊輔を諭すように、駿河麗子が言う。
「ビルの裏口を抜けたら、左へ進む ―― 右手に公園があるから・・・・・・見えてきたわね?そこに入って」
錆びた低い柵を越えて入った公園にも、これまで同様、人の姿はない。
人の姿どころか、周りには生き物の気配すらしない気がした。
この世の終りであっても、もう少し空気は親密なのではないだろうかとすら思えた。
この感覚が緊張しているせいなのか、それとも実際に自分が地獄へ向かっているせいなのか ―― そう考えた俊輔は、表情には出さずに笑ってみる。
内心笑ってみたところで、少しだけ緊張が解けてゆくのが分かった。
「 ―― それで?どうすればいい?」
「右手に倉庫があって、その横にゴミ箱がある。分かる?」
「ああ」
「そこへ行って、コートを脱いで、捨てなさい ―― 携帯電話を持つ手は極力動かさないで」
それを聞いて俊輔は苦笑したが、言われた通りに注意深く片手ずつ腕を抜き、脱いだ薄手のコートをゴミ箱に投げ込む。
「・・・それで?」
「スーツのジャケットと、ベストも脱いで」
「おいおい、こんな公共の場でストリップでもさせるつもりか?」
「余計なことを言っていないで、早く脱ぎなさい」
そう命じる駿河麗子の声は、それまでよりも少しだけ、余裕を失っているように聞こえた。
恐らく相良たちが俊輔の姿がないのに気づいて動き出したのだろう、と俊輔は予測する。
だがこの場所にたどり着くまでにはそれ相応の時間がかかるだろう。
そう考えながら、俊輔はスーツのジャケットとベストを脱ぐ。
「脱いだら携帯電話を壊して、入ってきたのとは反対側から公園を出なさい」
俊輔が脱いだベストをゴミ箱に放り込んだのと同時に、駿河麗子が言う。
明らかにこの様子を、どこかから見ているのだ。
俊輔は軽く息をついてから携帯電話を地面に落とし、落とした携帯電話を靴の踵で踏み潰す。
がしゃり、という鈍い音がして携帯電話が息絶え、それと同時にこちらへ向かって近づいてくる車のエンジン音が聞こえた。
再び息をついた俊輔は、ゆっくりと公園の向かいの道路へと足を向けた。