Night Tripper

36 : 護りたいもの

「 ―― 素人は外に出しておけ!うざいんだよ!!」

 綾の悲鳴にも似た懇願の声を聞いて叫んだ俊輔の脇腹に、鋭い蹴りが加えられる。

「こんな状態になっても他人の心配をするなんて、随分と余裕じゃないの、忌々しい・・・!!」
 叫んだのと同時に前へ進み出た麗子が、手にした鞭を俊輔の身体に振り下ろす。
「跪きなさい ―― 頭を下げなさい ―― これまでの行動を悔いて ―― 私を散々苦しめたことを詫びて ―― 一生私の元で贖罪の日々を過ごすのよ・・・!!」
 滅茶苦茶なやり方で振り下ろされる鞭で打たれる度、俊輔の白いワイシャツが切り裂かれ、切り裂かれたワイシャツから覗く肌に血が滲んでゆく。

「姐さんが頭を下げろと言ってんだよ、聞こえねぇのか、こら!」
 と、怒鳴った一人の若い男が、俊輔の左頬を殴りつけた。
 次の瞬間、麗子の鞭がまたしても空を切り ―― 稜は強く目を瞑る。
 上がる悲鳴は当然俊輔のものであると稜は思ったが、予想に反して上がった悲鳴は俊輔を殴った男のものだった。

「顔は傷つけるなと、言っておいたはずよ」
 と、麗子が言った。
「・・・すみません」
 と、年若い男が打たれた右上腕部を押さえて謝った。

 麗子はそれには答えず、地面に屈み込んだまま動かない俊輔を見下ろす。

「そのまま頭を下げ続けて忠誠を誓うと言うのなら、助けてあげると言っているのよ」

 打って変わって優しげな声音で麗子が言い、それを聞いた俊輔は無言で両手を地面につき、ゆっくりと立ち上がる。
 そうして上げられた視線は、燃えるような怒りに彩られていた。

「寝言は寝て言え。誰がお前なんかに頭を下げるものか・・・!」

 吐き捨てるように俊輔が答え、その返答を聞いた麗子の唇が怒りに震えた。
 それを合図としたように、一瞬止まっていた暴行が再開される。

「おい、本当にもう止せ!こんなことを続けていたら、死んでしまう・・・!」

 自分が何を言っても、何を叫んでも、どんなに必死で縛られた腕を自由にしようと足掻いても、意味などない。
 頭では分かっていたが、だからといって割り切れる訳でもなく、稜は叫ぶ。

 頬に落ちかかった髪を上げた右手の中指で耳にかけながら、麗子は稜を見やり、
「大丈夫よ、志筑くん。そう簡単に殺したりしないから、安心して見ていなさい」
 と、にっこり笑った。

 こんな状況でないときに見れば、それは完璧に美しく、優しく、暖かな笑顔であったに違いない。
 だがこの状況下で見ると、その笑顔は陰惨な印象を強める効果しかなかった。

「 ―― そう、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
 言葉を失った稜を冷ややかな目で見下ろした宮内が言う。
「相当、手加減をしていますからね」
「・・・て、手加減・・・?」
 呆然と聞き返した稜の視界の端で、暴行が止み、麗子が俊輔に降伏を促す。
 俊輔はやはりそれを拒否して立ち上がり、同時に再びの暴行が始まる。

 そのやりとりが、何度続いただろう ―― 稜はもう、数を数えることすら出来なくなっていた。
 ただ彼らのやりとりと俊輔の無言の意思表示を見聞きしているうちに、立ち上がる俊輔の、その動機が極道の面子やら意地やらだけに裏打ちされているものではないのであろうことを知る。

 何故そんなことが分かるのかと訊かれても、理由は分からない。
 ただ、何故か稜には分かったのだ ―― まるで岩に水が染み入るように。

 暴行が止む度に立ち上がり続ける俊輔が、ひたすらに時間を稼ごうとしていることを、その間に彼らの手や関心が稜へ向かわないよう、殊更に彼らを煽るような台詞と態度を繰り返していることを。

 それに気づいた瞬間、稜は泣きたくなる。

 宮内は最初に、“稜は餌なのだ”と言った。

 そうではないと鼻で笑って答えてはいたが、どう考えても、俊輔がここに来たのは稜の為だ。
 更に言えば、囚われたのが稜でなければ、俊輔はこんな無謀な真似はしなかったのではないか ―― 忠実そうな部下が何人もいるらしい俊輔自身がこんな危険な状況に身を置かないでもいいやり方は、きっと山ほどあるに違いない。

 しかもそれが自分の勝手な判断による勝手な行動が招いた結果なのだと思うと ―― やりきれなかった。

 むろん俊輔の乱暴なやり方に後押しされた部分も多々あるが、目の前で繰り広げられる酷い暴行と引き替えにするには、あまりにもレベルが違いすぎる・・・ ――

 吐き気すら覚えるような、稜にとってはある意味精神的な拷問のような時間は、永遠に続くかと思われた。

 が、それはコンテナの扉を乱暴に開けて飛び込んできた男の、
「駿河会の御堂専務と、辻村組の杉浦組長がここに向かっているとの報告が入りました!あと数分で到着する模様です・・・!」
 と、いう声で唐突に終りを告げる。

「なによそれは・・・ここの存在は絶対に知られていないはずでしょう!」
 顔色を変えて、麗子が叫ぶ。
「そんなことがなんでこんなギリギリにならないと分からないんだ、見張りはどうした・・・!」
 靴の踵で激しく地面を蹴り、金山も叫ぶ。
「それが・・・それぞれの予定の途中で巧みに姿を消したそうで・・・」
 しどろもどろな言い方で男が答え、舌打ちをした宮内が、
「三枝だ。相変わらず、こっちの動きの裏の裏を読んで来やがる・・・!」
 と、呟いた。

「だから言っただろう、三枝の情報収集能力を甘く見るなってさ」
 多少ふらつきながらも立ち上がった俊輔が、笑いながら言う。
「御堂専務とうちの組長が動いたからには、てめぇらもう多摩川からこっちにはいられないぜ。さて、うまく逃げ切れるかな・・・?」

 慌てた様子で近寄って来た“國竜会の構成員だ”と指摘された男たちとその場を立ち去ろうとしていた麗子が、俊輔の声を聞いて立ち止まる。
 振り返った表情は、般若もかくやというようなもので ――――

「殺しなさい・・・、あいつを、撃ち殺して・・・!」

 と、麗子は血みどろの声で叫んだ。

 命令を聞いた男たちの中の数人が、懐から黒光りする銃を取り出し、その銃口を俊輔に向ける。
 銃を携帯していたのはみな、高い地位についているのだろうと一見して分かるような年輩の男たちばかりだった。
 そしてそれは先ほど、暴行を受ける俊輔を見て妙な表情を浮かべている気がすると、稜が不思議に思っていた男たちでもあった。

 だがむろん、稜にはそんなことを思い返している余裕などはなく、今度こそ心臓が止まるかと思うほどに肝を冷やしたのだったが ―― 何故だろう、誰も引き金を引こうとしない。

 誰かが撃つのを待っているのか、そもそも誰も撃つ気がないのか。
 それは分からないが、銃口を向けられても泰然とした表情をしている俊輔とは対照的に、銃を構える男たちの顔色は自分たちが銃口を向けられているかのように蒼白だった。

「撃ちなさい。撃って、早く・・・何をしているの、柳川! ―― 北島!」
 引きずるようにコンテナから出されながら、麗子が声を限りに命令する。
 名指しされた男たちはびくりと肩を震わせたがただそれだけで、引き金を引く者は誰もいなかった。

「姐さん!杉浦組長の車が勝どきを過ぎました!急いでください!」
 別の男が金切り声で叫び、呪詛にも似た呻き声を上げた麗子が身を翻してコンテナを出てゆき、その後を男たちが追う。
 しかし最後の一団がコンテナを出ようとした際 ―― その中にいた金山がふいに足を止め、振り返って稜を見た。
 そして一瞬躊躇う様子を見せた金山が、制止の声を振り切って小走りに稜の元へと戻ろうとする。

「・・・こいつに触るんじゃない」

 そこへ素早く立ちはだかった俊輔が、地を這うような低い声で、言った。