Night Tripper

37 : 住む世界

 行く手を阻まれ、忌々しそうに顔をしかめた金山だったが、次の瞬間、その顔に嘲けりにも似た笑いが閃く。
 同時にまるで手品のように取り出されたナイフが、俊輔に向けて繰り出される。

 後ろで見ていた稜は思わず息を呑んだが、俊輔は小さな動作でナイフの切っ先をかわし、ナイフを握る金山の手を強く払いのけた。
 元々俊輔を一瞬怯ませるためだけを目的とした攻撃だったのだろう、金山は取り落としたナイフはそのままに、反撃することなく素早く身を翻してコンテナを飛び出してゆく。
 車のドアが大きな音を立てて閉められる音がして、急発進した車のタイヤがヒステリックな音を立てるのが聞こえた。

 その後も暫くの間、俊輔は身動きひとつせず、遠ざかってゆく車の音に耳を澄ましていた。
 エンジン音が遠く聞こえなくなり、辺りに完璧な静寂が訪れたところで、ようやく俊輔の背中から緊張が消えてゆく。

 何か言わなければならないと、稜は思った。
 だが肝心の言葉が、何一つ出て来なかった。

 緊張を解いた俊輔はひとつ息をついてから、身体を屈めて金山が落としていったナイフを拾い上げる。
 そして拾い上げたナイフを手のひらに馴染ませるような動作をしてから、稜の腕を拘束している縄を切り、その肩をつかみ上げるようにして稜を立ち上がらせる。

 それでもなお、稜は何も言えなかった。
 俊輔も特に、何も言おうとはしなかった。

 流れる沈黙の中、稜は何度も、何度も、何らかの言葉を発するための、必死の努力をする。
 その努力が何とか形になりそうに思われたところで、外に数台の車がやってくる音がした。

 車が停車する音と、ドアが開く音と、コンテナの中に三枝たちが飛び込んで来たのは殆ど同時のようにすら思え ―― その勢いに押されるように、形になりかけた言葉は稜の喉の奥底で虚しく砕け散ってしまう。

「相変わらず出来る奴だよ、お前は。惚れ惚れするぜ」
 転がるように走ってきた三枝を迎えて、俊輔が笑う。
「冗談じゃありません」
 顔色は失われていたが、言葉尻は普段通りになった三枝が、叩きつけるような言い方で答える。
「こんな思いは、もう二度とごめんです」
「・・・伊織は?」
 苦笑を納めた俊輔が、三枝の後ろの面々を見渡してから尋ねる。
「無事ですよ。今は豪さんの家で、見張りを・・・ ―― 」

 と、三枝が説明しかけた、その時。

 三枝と共にコンテナに飛び込んできた男たちが、一斉に直立不動の形をとる。
 ゆっくりと三枝もそれに倣い、身体を引いた。

 コンテナ入り口に姿を現し、俊輔に向かって真っ直ぐに空けられた道を堂々とした歩き方でやってくる男に、稜は見覚えがあった。
 そう、真由と共に行った西新宿のフレンチ・レストランで、俊輔と一緒にいた ―― 後に俊輔が“うちの組長だ”と言っていた男だ ―― つまり彼が杉浦儀一という名の、辻村組の現組長なのだろう、と稜は考える。

「この大馬鹿野郎が」
 俊輔の前に立った杉浦は開口一番、そう言った。
「俺は口を酸っぱくして言ったはずだ。“大将は前線に立つな” ―― 何度言えば分かる」

 それは抑揚ない平坦な声だったが、腹の底に響くような、妙な圧力を有する声だった。
 だが対する俊輔は動じず、唇を引き結んだまま、何も言おうとしない。
 そんな俊輔をじっと見ていた杉浦が、大きなため息をつく。

「お前には教えなきゃならんことが、分からせなきゃならんことがまだ山ほどある。今回みたいなこともそうだし、駿河会長と美幸さんの間にあったこともそうだ。お前は・・・絶対に信じないと言ったが」
 懇々と、諭すように、杉浦が言う。
「だがな・・・そんなことはもう、どうでもいい。
 いいか、この俺は、お前を息子のように思っている ―― 誰もが皆、お前のために必死になっている。それを知らない訳じゃないだろう。あんまり心配させるな」

 そこまでを強い口調で言い切った杉浦は、無事で良かった・・・。と続けて呟き、俊輔をがむしゃらな勢いで抱きしめた。
 そこで初めて、俊輔が小さな声で謝罪の言葉を口にするのが聞こえた。

「・・・とにかく、まずは病院に行くぞ」
 少ししてから、杉浦が言った。
「そんな大袈裟にしなくて大丈夫ですよ。随分と手加減をされました」
 宮内が稜に言ったのと同じことを、俊輔が杉浦に言った。
「馬鹿を言うな、何が手加減だ。そういうことは、鏡で自分の格好を見てから言え」
「自分のことは、自分が一番よく分かります」
「駄目だ、後からどんな影響が出て来るか分からん ―― 来い、行くぞ」

 有無を言わせないという勢いで杉浦は俊輔の背中を押したが、その力に逆らうように、俊輔は稜の方へ振り返ろうとした。

「俊輔!いい加減にしないか!!」
 俊輔の素振りを目にした瞬間、杉浦が声を荒げて怒鳴る。
「住む世界の違う人間だ ―― どうにもならん」

 杉浦の言葉を聞いた俊輔の瞼が、微かに震えたように見えた。
 瞬きと見違うような微細な震えではあったが、そこには明らかに、動揺の影が見え隠れしていた。

 短い間があり、目を伏せた俊輔が再度目線を上げて杉浦を真っ直ぐに見る。
 その表情からは、動揺の影はもう消えていた。

「分かっています、それは ―― 最初から」
 と、俊輔は言う。
「ただ、少し話をしたいだけです。すぐに行きますから、先に行っていてください」

 杉浦は苦虫を噛みつぶしたような顔をしたが、やれやれ。という風に首を横に振り、
「・・・5分以上は待たんぞ」
 と、言ってその場を立ち去る。

 周りにいた男たちも無言で、次々と杉浦の後を追い ―― 最後、自らの上着を俊輔の肩にかけてから冷たい視線を稜に投げかけた三枝が、コンテナを出てゆく。

 コンテナ内に他の人間の気配がなくなったところで、俊輔はゆっくりと振り返り、稜を見下ろした。

「・・・過ぎるくらいの後悔をしていると言っていた矢先にこの騒動だ。流石のお前も、完全に懲りたろう」

 尋ねる声も、稜を見下ろす視線も、どこか慈悲めいてすら感じるほどに優しかった。
 引き続き言葉を発せられないでいる稜に構わず、声も視線もそのまま、俊輔が続ける。

「約束しよう。俺も、俺の関係者も、二度とお前の前には姿を見せない。
 だから俺のことは、もう忘れろ ―― 忘れてくれ」

 淡々とした口調で言った俊輔は、間も余韻も何もなく、踵を返す。

 遠ざかってゆく俊輔の後ろ姿を、稜は無言で見送る。

 出来ることなら、名前を呼びたかった。
 名前を呼んで、俊輔を引き戻して、最初からきちんと話をしたいと、稜は切実に思った ―― 真夜中にする、祈りのような気分で。

 しかし稜にはどうしても、それが出来なかった。

 名前を呼ぶだけなら、俊輔をただ純粋に引き留めるだけで良いのなら、それは出来ただろう。簡単なことだ。
 けれどそれからどうするのかと考えると、どうしてもその一歩を踏み出すことが出来ない。

“やらないで後悔するよりは、やって後悔するほうがいい”というのを人生における最大の、そして確固たるポリシーとしてきた稜にとって、こんな経験は初めてだった。

 稜のそのポリシーを縛るのは、俊輔その人が、そして今の今までこの場にいた男たちが醸し出していた、圧倒的かつ揺るぎない雰囲気の強さだったかもしれない。

 世間から遠く隔絶された狭く深い混沌とした世界で、文字通り命を削りながら生きのびてきたのであろう男たちの、少しでも揺らぎや躊躇いを含んだものを排除しようとする無言の意志 ―― 彼らの生きる特殊な世界において、稜に選択の余地が与えられるものごとというのは、本当に、ほんの少ししかないのだ。