Night Tripper

38 : 闇の向こうにある答え

 コンテナを出て行った俊輔と入れ替わるようにやって来た男 ―― 恐らく俊輔に命じられたのだろう ―― に送られて、稜は経堂のマンションに帰った。

 自宅マンション前で車のドアを開けてくれた男に、
「本当にこれで全てが終るのか・・・?」
 と、稜は尋ねてみる。

 至ってシンプルな稜の問いかけの何が分からなかったのか、男は首を捻って少し考え込んでから、
「・・・ええと、そうっすねぇ・・・とにかく、筆頭がああいう風にきちんと言い切った約束を破ったのは、見たことないっすよ」
 と、どことなくたがの外れたような口調で答えた。

 彼は稜が道明寺医院に連れて行かれた時の運転手と、同一人物だった。
 彼のネクタイの締め方は相変わらず歪んでおり、スーツの着こなし方もどこかちぐはぐだった ―― 恐らく、あまり着慣れていないのだろう ―― それと連動して、話し方も奇妙に歪んで聞こえるのかもしれない。

 稜が頷くのを見た男は軽く頭を下げ、運転席に戻ってゆく。
 特に引き留める理由も思いつかなかったので、稜は黙ってその後ろ姿を見送るしかなかった。

 走り去る車影が遠く小さくなって見えなくなるのを確認してから、稜はため息をつき、ゆっくりと部屋へ向かった。

 歪んだネクタイの男が言ったとおり、俊輔の約束は破られることはなかった。

 これまでも何度か、俊輔が稜の前に姿を現さなくなることはあった。
 しかし今回の静寂は、これまでのどの沈黙よりも完璧で、揺るぎなく、完成されたものだった。

 その静寂の中、稜は機械的に会社に通い、機械的に仕事を片付け、機械的に同僚や友人と会話を交わし、機械的に帰宅し、機械的に日常生活を営むための雑務に対応してゆく。

 一見、以前の ―― 俊輔と再会する前の ―― 日常生活がそっくりそのまま、トレイに乗せられて返却されて来たように思えた。 

 何も変わらない。変わっていない。
 注意深い目で辺りを見回してみても、変わったものなど何一つ見当たらない。

 しかし、何かが違うのだ。
 確実に、決定的に、何かが違う。

 初めのうちは、こういう感覚もやがて薄れて消えてゆくのではないかと ―― そうであるべきだし、そうあるのが一番良いのだと、稜は考えていた。
 杉浦が言った通り、そして三枝が言葉にせずに主張していた通り、彼らとは住む世界が違うのだ。
 そこに無理に稜が割り込もうとすれば、必ず何らかの軋轢が生じる。
 それはきっと、ありとあらゆる意味で、良い結果は生まないだろう、それは稜にも分かっていた。

 だが日々生じる説明の付かない違和感は、時の経過と共に更に明確で顕著なものになるだけで、消えるどころか小さくすらならない。

 眠れない夜、暗闇の果てを見詰めながら、稜は考える ―― 数ヶ月前に稜の前に現れ、鮮烈と言うには余りに生々しく、強烈と言うには余りに痛々しい感覚だけを残して消えた男について。

 何をどう考えて、どう判断すれば良いのかすら分からないままに、稜は考え続ける ―― 彼と交わした会話のひとつひとつ、その仕草のひとつひとつ、その表情のひとつひとつ、そして・・・ ――――――

 しかしそうやって考えれば考えるほど、どういう道筋を通って考え直しても最後に辿りつくのは、
“結局のところ、自分の考えが定まらない限り何を考えても無駄である”
 という、当たり前といえば当たり前の、ある意味根元的な結論だった。

 そしてそこに思い至った稜が真っ先に思い出したのは、最後に会った時に真由が言った言葉だった。

 ―― 稜はいつも、最後の最後で拒絶する ――

 真由にそう言われた当初、稜は彼女が何を言わんとしているのか、自分が何を言われているのか、さっぱり分からなかった。
 自分が酷く理不尽に責められているような気すらしたし、妙なことを口走る女だとすら思った。
 だが今になって彼女に言われた言葉を思い返してみると、その言葉は妙にしっくりと心に馴染んでくる気がした。

 思えばこうして自身と向き合い、本心を突き詰めて考えてみたことがこれまでにあっただろうか、と稜は考えてみる。

 答えはノーだ。
 30余年生きてきた中で、一度だって自分自身と真正面から対峙したことなどない。
 真由が言うのも当然だった、自分自身ときちんと向き合っていない人間が、他人を受け入れられる筈がないのだ。

 身体中の空気を吐き出すようなため息をついてから、稜は時計を見る。
 暗闇でぼんやりと光る時計の針は、丁度午前3時を指し示していた。
 フィッツジェラルドが「魂の闇の中で、常に指し示されている」として定めた時刻。

 構わないさ、と稜は思う。

 そう、元々ここは、来たことも見たこともない世界なのだ。
 視界が利かなくても、そう困ることはあるまい。

 重要なのは、自身のこの手つかずの海溝から、確固たる唯一無二の真実を探し出せるかどうか ―― ただ、それだけなのだ。

「ごめんなさい、少し遅れちゃった」

 梅雨の明けた夏の初め、新宿のアルタ近くにあるひっそりとした喫茶店。
 約束の時間よりも5分ほど遅れて姿を現した真由が言って、稜の前に腰を下ろした。

「いや、構わないよ」
 手にしていた本を閉じて、稜は言う。
「・・・少し、痩せたんじゃない?」
 注文を済ませてから、真由が言った。
「そうかもしれない」、と稜は言う、「ちょっと・・・色々と、あったものだから」

 答えた稜をじっと見ていた真由は何事かを言おうか言うまいか、しばし悩んでいたようだったが、結局言わずに話題を変える。
「こんな風に、稜から会いたいって言ってきたのって、初めてね」
「そうだったか?」
「そうよ。いつもどこそこに行きたいって、私から言ってた」
「・・・歯痒かったろうな」
 苦笑して稜は言い、真由はただ笑った。

 沈黙があった。
 それは気まずいものですらなく、沈黙にも様々な種類があるのだと、稜は脳裏の片隅で思う。

「長いこと、連絡をしなくて済まなかった」
 沈黙を破り、稜は口を開く。
「言い訳はしないし、する気もない。とても複雑な理由があって、悪いけれど説明も出来ない。ただ、はっきりしたことは ―― 真由、君とは、結婚は出来ない」

 そう告げた稜を、真由は口の端に微笑を浮かべたまま眺めていた。
 その笑みには嫌味とか、無理とか、そういう色はまるでなかった。

「どうして今更、そんなことを言う気になったの?」
 やがて、真由が訊く。
「半年以上音沙汰がなかったのよ。そんなこと、こんな風にわざわざ言わなくても分かるだろうって、思わなかった?」
「今更か・・・確かにそうだね。今更と言われれば、今更かもしれない」
 一言一言、言葉の意味を確かめるような言い方で、稜は言う。
「でも例え万人が今更だと言っても、言っておかなければならないと思った。適当に、なし崩しにしていい問題ではないから」
 稜の説明を聞いた真由は、今度は小さく声を上げて笑う。
「色々あったって、確かにそれはそうなんだろうけれど ―― そういうところ、全然変わらないのね、稜は」
「・・・そういうところ?」
「真面目なところ。真面目で、融通が利かない・・・私とのことを終わらせないと、次に行けないんでしょう?」
 指摘されて、稜は言葉に詰まる。
 笑いながらもどこか真剣な光を宿した眼差しでそんな稜を見詰めながら、真由は続ける。
「前に会ったときにも聞いたわね、“私の他に、誰かいるんでしょう”・・・稜はあのとき、そんなのはいないって言っていたけれど、いたのよね?違う?」

 それでも尚、稜は答えられない。
 真由は困ったように、微かに首を右側に傾ける。

「・・・浮気をしていたんだろうとか、責めるつもりはないのよ。稜が本当の意味での浮気なんか出来る人じゃないっていうのは、それは今でも信じているもの。ただ、私は・・・」
「違う、そうじゃないんだ」
 真由の取り繕うような台詞を遮って、稜は言う。
「そうじゃなくて ―― 単純に、それがさっぱり分からないんだ。だから答えようがない」
「・・・分からないって・・・何が?何が分からないの?」
 と、真由が訊く。
「自分が相手をどう思っているのか。それだけが、どうしても分からないんだ。いくら考えてみても」
 と、稜は答える。

 どこか諦め気味に呟いた稜を、細めた目で伺うように見ていた真由が、やがて、にっこりと微笑む。

 そして言う、「それが、答えなんじゃない?」