39 : 後戻り
「・・・答え?」
「そうよ。稜はいつも、自分の気持ちよりもまず他人のことばっかり考えているじゃない?」
「・・・そんなことはない」
びっくりして稜は首を振ったが、そんな稜を真由は面白そうに見て言う。
「あら、そうかしら?
でも稜は私が好きだって言ったら好きだって言ってくれたけれど、それって私のことが別に嫌いじゃなかったからだし、嫌いじゃない私を拒絶して傷つけるのが嫌だったからよね?
私と付き合ってくれたのも、結婚してもいいって言ってくれたのも、それと似たような理由なんじゃない?違う?」
「・・・君の言うことを聞いていると、何だか自分がもの凄い人非人みたいに思えてくるね、どうも」
「うーん、そこまでとは言わないけれど、近いものはあるかもしれないわよ」
と、真由は悪戯っぽく笑ってみせる。
「・・・とにかく、そんな稜が訳が分からなくなるくらい、相手に対する自分の気持ちを突き詰めて考えてみているって、凄く特別なことなんじゃない?」
「そうなのかな?」
思わず身を乗り出して訊いた稜だったが、真由は呆れた、という態度で身を引く。
「知らないわよ、私はそういう可能性があるんじゃない、って言っただけ。確定まで求められても困るわ」
「・・・そうか、それはそうだよな、ごめん」
と、謝る稜を見た真由は、堪えきれないという風に吹き出す。
「さっき、稜は変わっていないって言ったけれど ―― あれ、訂正するわ。変わったわ、稜」
「どこが?」
「感情表現がストレートになった」
「・・・それは前から、よく言われるよ」
「違うわよ、全然違う」
頬を押さえていた左手を外し、真由はきっぱりと首を左右に振る。
「確かに稜はよくそう言われているけれど、あれ、私は絶対に違うって思っていたもの」
「・・・そう?」
「ええ。だって稜はいつだって、プラスの感情しか外に見せていなかったでしょう。喜怒哀楽で言ったら、喜と楽。いつもそう。私にだけじゃない、誰に対しても、本当に苦しいときや困ったときは、頼るどころか会ってさえくれなかった ―― 心当たり、あるわよね?」
思ってもみなかった指摘に、稜は言葉を見失う。
真由は遠い海の彼方に沈む美しい夕焼けを見るような視線で稜を眺めながら、続ける。
「そのうちそういう垣根を取り払えるかなって思っていたんだけれど・・・結局、私には無理だった。
でも今日の稜はちょっと違う気がする。その相手の人のことを考えるだけで、何だかとっても焦ってるし」
と、言って、真由は少し切なげに笑った。
「 ―― 俺はきっと、知らないうちに山ほど君を傷つけていたんだろうな」
と、稜は呟くように言う。
「いいのよ。終わったことだもの」
「・・・君と、結婚出来ればよかったのにな」
思わず稜は言い、それを聞いた真由は苦笑しただけで、もちろん何も答えようとしなかった。
最後の最後でとんでもないことを言う、とんでもない男だと思ったのだろう ―― 確かにそれはその通りだ。
逆の立場だったら相手を殴り倒すところだ、しかし ―― それは稜の偽らざる本心であり、あらゆる方向から見た上での真実でもあった。
「・・・また、連絡してもいい?」
新宿駅東口の改札前で、振り返った真由が言った。
「稜とは元々、友達だったんだもの。また友達に戻れるわよね?」
「・・・いや、それはやめた方がいい。今後一切、俺とは関わるべきじゃない」
慎重に選択した言葉を、それ以上の慎重さでもって構築しつつ、稜はゆっくりと言う。
それは自分自身の決心を、改めて、そしてはっきりと最終確認するための課程でもあった。
「繰り返しになるけれど、色々と、とても複雑な事情がある。説明は出来ないけれど、とにかくそれが真由の為なんだ。出来ることなら、俺のことは今日限りで忘れて欲しい」
「・・・何よ、それ?一体何を言っているの?」
眉間にぎゅっと皺を寄せて、真由が訊く。
「普通じゃないわ、そんなの ―― ねぇ、何か困ったことになっているの?それなら・・・」
「真由」
続いてゆこうとする真由の言葉を強く遮って、稜が言う。
「もう、決めたんだ。後戻りは出来ないし、する気もない」
反論を許さないという意志の漲った稜の言葉に、真由は顔色を無くして目の前の稜を見ていた。
だがやがて ―― もう何を言っても無駄だと悟ったのだろう ―― 悲しげに、力無く、首を横に振る。
「・・・じゃあね」
少し後で、真由は言った。
「元気で」
と、稜は言った。
新宿駅の雑踏に真由の後ろ姿が消えてゆくのを見送ったその足で、稜は赤坂に向かった。
今日の今日で行動を起こすつもりはなかったのだが、決心がついた時点で行動しなければ、また妙に考え込んでしまいそうで怖かった。
調べてみたところ、あの後俊輔は、例の六本木のマンションには姿を見せていないらしかった。
あの部屋を売り払ったのか、ただ使用していないだけなのか、そこまでは分からない。
が、赤坂にある辻村組のフロント企業である辻商事の所在地まで、そうおいそれと変えたりしないだろうと思ったのだ。
以前三枝に渡された名刺に印字された住所からその所在地に行ってみると、そこは予想以上に大きくて綺麗で、立派なビルだった。
とてもヤクザが経営している企業とは思えない。
実際に関係者の口から聞いていたのでなければ、信じられなかっただろう。
こんなことだと知っていれば、スーツを着てきたのにな。と、見上げたビルから自分の服装に視線を落として、稜は思った。
一応ジャケットは着ていたが、今日の格好はとても仕事中には見えない。
一瞬、
“後日、また改めて出直そうか?”
という考えが脳裏をよぎったが、稜はその考えを振り切るようにビル入り口に向かう階段に足をかける。
もう、後戻りは出来ないのだ ―― さっき自分で、真由に言った通り。
だがビル入り口に近づくにつれて足取りが重くなってゆくのは、どうしようもなかった。
決心したとはいえ、躊躇う気持ちが全く消え去ったわけではなかったのだ。
自分の意気地のなさにうんざりする稜を、後ろからやってきた男が足早に追い越し、
「失礼」
と、稜に声をかけ、先にビル内に入ってゆく。
彼はスーツ姿だったが、そのスーツの着こなしはとてもカジュアルだった。
外国ではよく、そうして空気のようにスーツを着こなす人間を見るが、日本人ではなかなかそうはいかない。
あるいは、外国生活を長く経験した営業マンなのかもしれない ―― そう思いつつ、その男のカジュアルな雰囲気に後押しされるように、稜は辻商事の本社ビル内に足を踏み入れ、受付に向かう。
「すみません。辻村社長とお会いしたいのですが」
そう告げた稜を、そこにいた受付嬢はどこまでも受付嬢的な微笑を浮かべて迎え、
「失礼ですが、お名前を頂いても宜しいでしょうか?」
と、言った。
「・・・志筑と申しますが」
「志筑さま・・・でございますね」
と、繰り返した受付嬢の受付嬢的微笑が、気のせいだろうか、チェシャ猫的に幅を広げた気がした。
受付嬢は華麗な手つきで脇にあるキーボードのキーをいくつか叩き、それから再度顔を上げる。
「失礼ですが、アポイントメントはお取りでしょうか」
「・・・いえ」
「申し訳ございませんが、社長は只今、留守にしております。お手数ですがアポイントメントをお取りの上、再度お越しいただけますでしょうか」
「それでは、少し・・・」
「大変申し訳ございませんが、アポイントメントなしのご訪問には、対応致しかねます」
にべもない口調で、受付嬢は言った。
「いや、あのですね・・・」
「アポイントメントをお取りの上、お越しくださいませ」
更に食い下がろうとした稜の言葉を遮って、受付嬢・チェシャ猫的微笑の鎧をきっちりと着込んだ受付嬢が繰り返す。
稜の格好がいけないのか、そもそも稜の名前を出した時点でアウトなのか。
それは分からないが、受付嬢の態度には、とりかかりというものがまるでなかった。
どうすればよいのだろうと悩みつつ踵を返したところで、稜は斜め後ろに立って自分を覗き込んでいる男の存在に気付く。
それは先程、稜を追い越して先にビルに入っていった男であった。