40 : 約束のひとつ
「なぁ、もしかしてあんた、志筑稜か?」
じろじろと稜を見ながら、男が言った。
「・・・あなたは?」
不躾な視線を浴びせかけられた上、唐突に“あんた”呼ばわりされ、更にフルネームを呼び捨てられた稜は、むっとしたのを前面に押し出して言った。
しかし男は気にする素振りを見せず、更に顔を近づけて稜を覗き込んでくる。
「あれ、もしかして?って戻って来たんだけど、やっぱりあんたが志筑稜か。
いやあ、“やっと、会えたね” ―― なんてな」
「・・・・・・。」
「・・・“辻”繋がりだったんだけど。ちょっとは笑ったら?」
一体何なんだ、この男は?と思いつつ、稜はカジュアルを通り越しておちゃらけた感のあるその男を迂回するように進路を取り、ビルの出入り口に向かおうとする。
そのすぐ後を男が追い、追いながら、
「しかし、俊輔の奴も相当男振りのいい奴だと思ってたけど、あんたはあいつとはまた方向性が違うな。噂以上の見応えだね」
と、言った。
俊輔の名を聞いたところで足を止め、振り返った稜を見て、男は笑う。
「俺は永山ってもんだ。俊輔の下で働いてる」
そう言われて、稜は改めて正面から男を ―― 永山を見る。
顔も目も笑っている。物腰や微笑みも、あくまでも柔らかく、そして優しい。
だがその内部にとてつもなく強大な、熱いマグマのようなものを内包している ―― 永山は、どこかそんな気配を感じさせる男だった。
そういう雰囲気を、これ見よがしにひけらかしている訳では決してない。
しかし笑いの形に細められた目の奥にはひやりとするような厳しい光と、この世の酸いも甘いも全てを見極めてきた人間にしか持てないであろう、深淵のような深みがあった。
ここ1年ほどの間で幾人もの極道を間近に見てきたが、この永山という男は他の男たちとは格が違う、と稜は直感する。
腹をくくってかからなくては、太刀打ちが出来ないかもしれない。と気を引き締めた稜の心中を察しているのかいないのか、永山は軽い口調で続けた。
「・・・で?あんた、どうして俊輔に会いに来たんだ?」
「どうして、とは?」
「単刀直入に言うと、現時点で俊輔の奴をどう思ってるのか、ってことになるかな」
「どうしようもないほど、最低最悪な男だと思っていますよ」
間髪入れずに稜が答えると、永山は一瞬押し黙ってから、喉を反らして笑い出す。
「いや、あんた、いいね。いいよ。気に入った」
いつまでそんな馬鹿笑いを続けるつもりなんだ、と稜がいい加減恥ずかしくなった所で ―― 通りかかる人が皆、振り返るようにして稜たちを見てゆくのだ ―― 永山は笑いを収めて言った。
「ついて来な。俊輔に会わせてやる」
「・・・不在だと聞きましたが?」
エレベーター・ホールへと足を向けようとした永山に稜が言うと、
「いやいや、ちゃんといるよ。俺は本人に呼ばれて来たんだからな」
と、人差し指で上を指し示して、永山は答えた。
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「すみません、ちょっと遅れたな」
ノックもそこそこにドアを開けて入って来た永山を、パソコンに向かっていた俊輔は見ようともせず、
「・・・気にするな、本当にちょっとしか待ってない。たったの1時間半くらいだ」
とだけ、言った。
「いやぁ、思わぬ所でちょっとばっかし、蹴躓いちゃいましてね。30分くらい前には下に着いてたんですが」
少しも悪びれずに永山が言い、そこで初めて、俊輔はパソコン画面に固定していた視線を上げる。
「何にせよ、計算は合わないようだな。
“極道の世界は信用が第一だ。遅刻なんて以ての外”って、あれは一体、誰の教えだっただろう?」
「そんなことも、言いましたかね。
まぁ、それはそれとして ―― “俊輔”」
ふいに名前を呼ばれ、俊輔は訝しげに眉根を寄せる。
俊輔がこの世界に足を踏み入れてからというもの、永山だけは決して ―― 少なくとも本人の前では ―― 俊輔を名前で呼ぼうとはしなかったのだ。
「・・・何だ?」
「お前に客だよ」
「・・・客?誰だ?」
「志筑稜」
すらりと永山が口にした名前を聞いた俊輔の顔から、表情という表情が抜け落ちて行く。
「 ―― 放っておけ。あいつにはもう、金輪際会うつもりはない」
長い沈黙の後、無理な圧力をかけられて押し潰されたような声で、俊輔が言う。
「そりゃあ手遅れだ。もう、すぐそこまで来てる」
対照的に飄々とした声で永山が言い、親指で自分の後ろのドアを指した。
刹那、俊輔の顔がぐしゃりと歪む。
「 ―― 俺は言っておいたはずだぞ、永山。何があってもあいつを俺の周りに近付けるなと」
「ああ、聞いたよ、それは」
「だったら、どうして・・・!」
「俊輔、お前、覚えているか ―― お前がこの世界に入ることを決めた時、俺が言った言葉を?」
俊輔の怒鳴り声をあっさりと遮って、永山が訊く。
「お前が何を捨てて、何を諦めて、何を失って、この世界に入ることを決心したか ―― 俺は知っていた。全部分かっていた。だから言った。あっちの世界で、何よりもと思っていたものを全て奪われたお前に、こっちの世界で守りたいと望むもの、手に入れたいと欲するもの、その全て、何もかもをこの俺が、お前のものにしてやる ―― 覚えているな?」
睨むような永山の視線の中、捕らわれたように、俊輔は身動きひとつ出来ない。
指先から、細胞が凍ってゆくような感覚があった。
「志筑稜は、あの約束のうちのひとつだと思った。だから連れてきた。俺の思い違いだったのなら、放り出せ。責任を持って、後腐れ無く、この俺が始末してやる」
「待てよ ―― 永山・・・!」
言うだけ言って部屋を出て行こうとした永山の腕を、立っていった俊輔が激しい動作で掴む。
「・・・安心しろ、何も無理矢理連れてきた訳じゃない」
ドアノブに手をかけたところで、首だけを曲げて俊輔を見た永山が言う。
「あっちからやって来ていたのを、たまたま通りかかった俺がピック・アップして来ただけだ」
そう言った永山が俊輔の腕を外してドアを開け、部屋を出て行く。
その扉の向こうから、入れ替わりに、稜が姿を現す。
稜の姿を目にした俊輔が、まるで逃げるかのように小さく2、3歩、後ろに後ずさる。
構わずにゆっくりと部屋に足を踏み入れた稜の後ろで、小さな音を立てて、ドアが閉まった。
