41 : こっちの台詞
ドアの閉まる音とほぼ同時に俊輔は稜に背を向け、どこかぎこちない動作でデスクに戻って行った。
そしてその上に置いてあった煙草のケースとライターを引き寄せ、取り出した煙草に火をつけようとする。
だが幾度やっても、ライターは石が擦れ合う乾いた音をさせるだけで、煙草に火はつかなかった。
そんな俊輔の背中を、稜は黙って見ていた。
この部屋に足を踏み入れる直前まで、心臓がどうにかなってしまったのではないかと不安になるくらいに激しかった動悸は、今や不思議なほど平静だった。
何を話せばいいのか、訊けばいいのか ―― 様々に考えていたことも全て頭から消え去っていたが、それでも焦りは覚えなかった。
やがていつまでも点火しないライターに痺れを切らしたのか、煙草に火をつけるのを諦めた俊輔は一口も吸っていない煙草を灰皿に放り込み、ぐるりと振り返る。
「・・・何のつもりだ」
と、俊輔が訊いた。
稜は口を閉ざしたまま答えず、ただ真っ直ぐに俊輔を見ていた。
「一体、何のつもりなんだ」
手の中のライターをせわしなく回しながら、頑なに稜から視線を逸らした俊輔が、短い沈黙を破って繰り返す。
その視線は稜の靴の爪先から10センチばかり離れた地点を、意味も訳もなく、見下ろしていた。
「俺のことは忘れろと言っただろう ―― 今すぐここから出ていけ。そしてもう二度と、俺の前には姿を見せるな」
一言一言、押しつけるような言い方で俊輔は言ったが、それでも稜は言葉を発さない。
やがて俊輔の伏せられた目に、どうにもいたたまれないという雰囲気が見え隠れし出したところで、稜はため息をつく。
「よくもまぁ、そんな勝手なことばかり言えるものだな。つくづくと、感心させられるよ」
言葉だけではなく心の底から、というような稜の口調を聞いた俊輔が、ちらりと目を上げる。
そんな俊輔から1mmも視線を外さず、稜は続ける。
「忘れろって、言うだけなら簡単だよな。でもあんな出来事を、一体どうやって忘れろって言うんだ。
突然姿を消して、現れたと思ったらあんなことを人にしておいて ―― あれを忘れろと言われて、はいそうですかとあっさり忘れ去れる奴がいるのなら、是非ともお目にかかりたいね。
少なくともこの俺は、あんなことを簡単に忘れられるほど、脳天気に人間が出来ていない」
「一体何を言っているんだお前は。慰謝料を出せとでも言うつもりか?」
手にしていたライターをデスク上に放り投げて、俊輔が言う。
「忘れろというのが駄目なら、言い方を変えてやる。忘れた振りをするんでも、死んだと思い込むんでもいい ―― とにかく、何でもいいから、もう俺には関わるな」
「・・・死ぬなんて、簡単に言うな。死んだらそこで、何もかもが終りなんだぞ。実際に生きている人間をそんな風に思うなんて、忘れるよりももっと無理だ」
「ここでお前と、倫理論を戦わせるつもりはない」
取って投げるような口調で、俊輔は言う。
「倫理論なんかじゃない。これは純粋な真実だ」
悲哀の色が漂う口調で、稜は言う。
俊輔はデスクの縁に半分腰をかけるように体重を預け、倦ねきったようなため息と共に、上げた右手の中指と人差し指で眉間を強く押さえた。
「お前が何を考えているのか・・・俺にはさっぱり、理解が出来ない。
そもそもお前、もうすぐ結婚するんじゃなかったか」
「・・・真由とは、別れたよ」
淡々とした口調は一切変化させず、稜は答えた。
稜の返答を聞いた俊輔は、眉間を押さえていた手をはずし、その日初めて正面から稜を見る。
そして訊く、「・・・どうして?」
その問いかけを聞いた瞬間、何の感情も伺えなかった稜の表情が一変した。
それを俊輔が訝しむよりも前に、つかつかと俊輔に近付いて行った稜が、その胸を力任せに押しやる。
「“どうして”? ―― “どうして”だって!?よくもそんな事が訊けるな。お前、頭がどうかしてるんじゃないか・・・!」
何度も、何度も、半ば殴りつけるようなやり方で胸を押されても、俊輔は何も言わない。何も言えない。
ただひたすらに困惑した表情で立ち尽くす俊輔を、稜は鋭く睨み上げる。
「確かにお前は頭はいいのかもしれないが、想像力ってものが決定的に欠落してる。
例えばお前にされた事を忘れることが出来て、その上で誰かと結婚とかをしたとして・・・何年か後にお前を街で偶然見かけて思わず声をかけたら、きっとお前はまた、こう言うんだよな ―― “悪いが、人違いだ”」
そう言われても尚、俊輔は何も言えず ―― やがて、呟くように稜が言う。
「あんなことを言われるのは・・・、一度だけで十分だ」
気が遠くなるほどの、長い沈黙があった。
その長大な沈黙の果て、
「・・・それは・・・、つまり・・・、お前・・・」
と、俊輔が喉の奥に何か乾いたものを大量に詰め込まれたような声で言う。
「それは、つまり、だよ。
・・・ったく、何だってこんなことにならなきゃならないんだ。納得がいかない」
がみがみとした言い方で稜は答え、その両腕をきつく組んだ。
「・・・信じられない・・・」
再びの沈黙の後、呆然としたまま稜を見下ろした俊輔が、ぼんやりとした言い方で呟く。
「あのな、それはどう考えても、絶対に俺の台詞だ」
憮然としてそっぽを向いたまま、稜が言った。
どこからどう見ても稜の態度は腹に据えかねる、といったものだった。
が、その白皙の頬にうっすらと血の気が上っているところを見ると、照れているだけのように見えなくもなかった。
伺うようにその顔を見下ろしていた俊輔の手が、ゆっくりとしたやり方で稜の肩へと伸ばされる。
その俊輔の動きは分かっていただろうが、稜はそれを、敢えて避けようとはしなかった。