Night Tripper

42 : 投げられた鍵

 むろんその後、手を伸ばしてきた俊輔に抱き寄せられるとか、その程度のことは予想していた稜だった。
 まぁそれ位はいいかとも(たぶん、きっと、多少は)、思っていた。

 しかし・・・ ――――

「な、何をするんだ、お前は・・・!」

 手を伸ばしてきた俊輔に、瞬きをする程度の間にデスクの上に仰向けに押し倒され、稜は叫ぶ。

「分からないのか、本当に?」

 つい先ほどまでの茫然とした風を一瞬にして綺麗にかなぐり捨てた俊輔は ―― あたかも、いままでの態度は猫でもかぶっていたのかという、それはそんな豹変ぶりだった ―― そう言って、にやりと笑う。

「だったら、分かるまで黙っていろ」
「いや、ちょっと、待て ―― って、ふざけるな、ここをどこだと思ってるんだ!」
 ジャケットが脱がされようとするのに激しく抵抗しながら、稜は叫ぶ。
「どこって、俺の会社だ。俺が何をしようと、誰も文句なんか言わない」
 示される抵抗を巧みに封じ込めながら、俊輔は涼しい口調で答える。
「そういう問題じゃないだろう!止めろって、本当に、誰か入って来たら・・・!」
「この社長室に、俺の許可なく入ってくる奴なんていない。安心しろ」
「・・・し、してたまるか、離せ・・・!!」

 誰かに聞き咎められることを危惧して小声で叫ぶ稜と、別に何ということもない。という様子で普通に話す俊輔との間に交わされる会話自体は、密やかと言ってもよいようなものだった。
 しかしその会話の裏で繰り広げられる攻防は、穏やかなものでは決してなかった。

 いや、正確に言うなら、穏やかでなかったのは稜だけだった。
 何故なら俊輔のやり方はこれまでのものと、そう大した差はなかったのだから。

 だがそうかと言って仕方ないと諦めるには事が事であり、場所が場所でもあり ―― これまでのどんな時よりも激しく抵抗する稜の腕が、俊輔のデスク上の電話線に絡まる。
 そうして引かれた電話線が、デスク上に置かれたパソコンのキーボードやら、ペン立てやら、その他細々としたものをなぎ倒した。
 止める間もなく、それらのものが派手な音と共に床に落ちてゆき ―― その音を聞きつけたのだろう、稜が入ってきたのとは別のドアから、

「どうしました・・・!」

 と、言って部屋に飛び込んできたのは ―― 三枝だった。

 デスク上に押し倒され、押し倒している稜と俊輔の姿を目にした瞬間、三枝の身体を取り巻く空気がさあっと冷えてゆくのが、見て取れるようだった。

「何か用か」
 稜の身体をデスクに押しつける力はそのままに、俊輔が訊く。
「いいえ、別に」
 定規できっちりと引いたような口調で、三枝が答える。
「ただ、1時間ほど後に、カワシマ・コーポレーションの柏木さまがいらっしゃる予定になっています。
 それまでに終りますか。それともリスケしますか」
「それまでには終わらせる」
「 ―― っ、ふ、ざけるな・・・!」

 三枝が部屋に飛び込んできた瞬間、思考の全てを漂白され尽くしたように真っ白になっていた稜だった。
 しかし2人のやりとり ―― 特に俊輔の最後の返答を聞いた瞬間に我に返った稜は、叫ぶのと同時に俊輔の臑あたりを力任せに蹴り飛ばす。

「本当に、本当に、本当に、ふざけるのも大概にしろよ、お前は!」
 流石に一瞬怯んだ俊輔の身体の下から素早く抜け出し、乱されかけたジャケットを着直して、稜は喚く。
「俺もいい加減、本気で怒るぞ!」
「・・・もう怒っているじゃないか」
 至極尤もな俊輔の、どこか笑いを含んだ指摘を受け、稜はぐっと言葉に詰まる。

 なにか痛烈な切り返しをしてやろうと、稜はめまぐるしく頭の中の辞書をめくる。が、通常ならばさっと見つけ出せる言葉は今日この時に限って、まるで見つけられない。
 数時間もすればぴったりの言葉を思いつけそうだったが、むろんそれは、この場に於いては何の役にも立たない。

 仕方なく稜は無言のまま俊輔に背を向け、怒りを露わにした足取りで、入ってきたドアへと向かった。

「おい、稜」

 その背中に向かって、俊輔が呼びかける。
 ドアまであと3歩、というところで不機嫌な顔をして振り返った稜は、空中を飛んできた小さなものを反射的に受け止める。

 投げてよこされたのは、どこかのマンションのものと思われる鍵だった。

「そこで、待ってろ」、と俊輔が言った。

 数瞬の間、俊輔の顔を無感動な様子で眺めていた稜は、ちらりと手の中の鍵に視線を落としてから肩をすくめる。

「悪いが俺は明日、普通に仕事があるんだ。また今度な」
「・・・いいから、言うことを聞けよ」

 再び背中を見せて去って行こうとする稜に向かって、俊輔が言う。
 そんな俊輔の命令にも似た言葉を聞いた稜は再び立ち止まり、天井を仰ぐようにしながら、
「・・・言っておくが、今日俺は、自分の意志でここに来たんだ」
 と、厳しい声で言って、振り返る。

 そうして俊輔を見据えた稜の双眸は、声よりもさらに険しいものだった。

「だから今後一切、絶対に、そんな口調で俺に命令なんかするな。俺がこれまでみたいにお前の思うとおりになると思ったら大間違いだからな ―― よく、覚えておけ」

 一気にそう言い切った稜は、ドアの脇に据えられた背の低いキャビネットの上に手にした鍵を叩きつけるように置き、そのまま部屋を出て行ってしまう。
 荒々しく閉められたドアがすぐに小さく開かれ、そこから苦笑を浮かべた永山が顔を出す。
 そして何も言わずに手だけを伸ばし、稜が置いていった鍵を手にとって去って行く。

 それら一連の流れを、まるで映画でも見るように見ていた俊輔は、辺りが静かになったところで首を曲げて三枝を見た。
 そして言う、「 ―― あいつさ、ああいう自分の態度が更に俺を煽っているんだって、どうして分からないんだろうな?」
 尋ねられた三枝は答える、「知りません、そんなことは」

 そして横目だけで冷たく俊輔を一瞥してから、普段よりも3割り増しの音を立てて、開けたドアを閉めた。