43 : 後悔するとは
「ちょっと・・・おい、ちょっと待てって!」
走ってきた永山が、閉まりかけたエレベーターの扉に無理矢理腕をねじ込んで、言った。
「そんなに急ぐなよ。送って行くから」
エレベーターの階数ボタンに伸ばしかけた手を止め、稜は首を横に振る。
「・・・ありがとうございます。でもここからなら電車で帰った方が早いので」
「まぁ、そう言わずに、送らせてくれよ」
永山は言い、エレベーターの階数ボタンを押す。
そして半ば強引に地下駐車場に連れて行かれた稜は、永山のものだという深い紺色のマセラティの助手席に乗せられてしまう。
「ああ見えても、あいつはあんたのことが心配でたまらないんだよ」
辻商事の本社ビルを出て左折したところで、永山が言った。
「この間みたいなことはそうそうないし、奴らはもう東京近辺には姿を見せられない。だがこうなったからには用心に越したことはないからな。
特にあんたは一般人だし、俺としても、なるべく迷惑はかけたくないと思っている」
「・・・迷惑」
それまで頑なに口を閉ざしていた稜が、繰り返す。
稜の声色を聞いた永山は、小さく声を上げて笑った。
「そうだな、あんたの言いたいことは良く分かるよ。迷惑は既に山ほどかけてきたし、現在進行形で目の前にある。既にあるものを、無くすことは確かに出来やしない。
しかしその迷惑を、最小限のものにする努力は出来るんじゃないかと思う」
永山の口調は表面的には軽かったが、その裏には見間違いようのない真摯な調子があった。
「・・・どうなるにせよ、自分で選んだことですから」
それを察した稜は、嫌みっぽい気配の一切ない口調で答える。
「うーん、三枝なんかに言わせたらそうなるだろうし、ある意味、それはその通りであるとも思うがね。
でもまぁ、とにかく、俺には俺なりの考えもあるのさ。だから今後何か困ったことや分からないことがあったら、遠慮なく言ってくれ。どんな些細なことでも構わない」
「・・・どうもありがとうございます。
では早速お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか」
と、稜は車窓から外を眺めたまま、言った。
「もちろん。なにかな?」
と、永山は走行車線から追い越し車線へと車線変更しながら、言った。
「この車は経堂とはまるで逆方向に向かっている気がするのですが、気のせいでしょうか」
「いや、気のせいじゃない、それは」
と、永山は笑う。
「しかし経堂に帰ったところで、結果は変わらない。
俊輔は絶対にあんたのところに行くだろうし、そうしたら最終的にこっちに連れて来られる事になる。最初から結末が分かっているものに抵抗するのは、時間の無駄ってもんだろう。
因みに行き先は品川だ。俊輔はここのところずっと、そっちに住んでいるんでね」
「・・・俊輔にも言いましたが、俺は明日、仕事があるんですよ」
「俊輔の周りには何時だろうが、必ず複数の人間が付き添ってる。帰るなら、そのうちの一人に送らせればいい。なに、遠慮することはない」
遠慮しているんじゃない、今日は家に帰りたいんだ、と稜は言う ―― 心の中だけで。
結局、俊輔の周りにいる人間は誰も稜の言うことなど聞いていないし、聞く気もないのだ。
抵抗するだけ労力の無駄であるのは、対する人間が変わっても同じらしい。
そう考えた稜は、こっそりとため息をかみ殺した。
品川駅にほど近いそのマンションの駐車場で、稜は車を降りた。
エンジンを切ってやはりマセラティを降りた永山に、
「部屋を教えてもらえれば、一人で行きますよ」
と、稜は言ったが、
「いや、ちゃんと部屋まで送らないと」
と、永山は首を横に振った。
「ここまで来たら、もう逃げませんから」、と稜は言う。
「そういう問題じゃないんだ」、と永山が言う。
「・・・どういう問題なんです?」
「俺は俊輔からあんたの身を預かってるんだ」
ちらりと左右に視線を流してからエレベーター方向へ足を進めて、永山は言った。
「万一あんたに何かあったら、俺は腹でも切らないとならなくなる」
「・・・江戸時代の侍みたいなことを言うんですね」
「まぁね ―― 似たようなものだ、極道なんてのは」
エレベーターの階数ボタンで36階を指定しながら、永山は口の端を歪めて笑う。
「一般人から見たら、なんでそんなことで、って言われるような約束ごとやら体面やらに、文字通り命を懸けてる。因果なもんだが ―― それが誇りでもあるのさ」
そう言った永山はその後、口を閉ざして稜を部屋まで送り届けてくれたが、最後、ロックを外したドアの鍵を稜に渡し、渡しながら、
「あんた、こんな選択をしたことを、後々後悔するとは思わないか」
と、静かに訊ねた。
促されるまま部屋に足を踏み入れようとしたところで稜は足を止め、永山を見る。
そして答える、「するでしょうね、たぶん ―― 明日の朝くらいには」
稜の回答を聞いた永山は、最初に顔を合わせたときと同様、一瞬押し黙ってから、喉を反らして笑い出した。
「いやぁ、最高だな、あんた ―― 本当に気に入ったよ」
そう言うのと同時に、一瞬にして笑いを回収した永山が、稜をまっすぐに見る。
「さっき俺があんたに言ったことは、頭の片隅にでも入れて置いてくれ。あんたのためなら、一肌どころか二、三肌くらい脱いでやる」
永山の口調は酷く断定的だったが、例え結果は変わらないのだとしても、言った側から稜の求めを叶えていない訳で ―― 今一つ信憑性に欠けるよな。と稜は思う。
が、永山の言葉に真剣な調子があるのも確かだったので、一応反論はせず、稜は黙って頷いた。
そんな稜の内心を分かっているのかいないのか、永山は唇の右端だけで笑って頷き、再度部屋に入るようにと稜を促した。
マンションの最上階にあるその部屋は、ちょっと驚くほどに広かった。
六本木のマンションも相当立派なマンションだと思っていたが、ここに比べたらその格は遙かに落ちるだろう。
暇にまかせて、稜は複数ある部屋のあちこちを見て回った。
最初は単純に面白く、興味深く、感心しつつ見ていた稜だったが、やがて ―― 見れば見るほど ―― どうにも奇妙な気分になってくる。
そもそも、初めて訪れた、家主のいない家のあちこちを勝手に見て歩くなど、普通なら考えられないのではないだろうか。
もちろんここで待っていろと言ったのは俊輔本人であるし、そう言うからには誰かに見られて困るものは何もないのだろう。
だがだからと言って他人の家を勝手に見ておいて罪悪感のひとつも覚えないのは、どうしてなのだろうと考えてみて ―― 稜はすぐに、その理由に気付く。
そう、ここには生活感というものがまるでないのだ。
まるで新居を探すために、モデル・ルームの見学をしているような気がするせいなのだ。
永山は先程稜に、“俊輔はここのところずっと、このマンションに住んでいる”と言ったが、この生活感のなさを見ると、とても信じられない。
旅先で数日間ホテル住まいをしたとしても、もう少し個人の気配というものが垣間見える気がした。
以前俊輔が母親と暮らしていたアパートは、このマンションの一部屋に収まって余るほどではないかというような小ささだったが、これよりももっと暖かい気配が漂っていたものだ。
これではまるで、人の影が生活している場所みたいじゃないか。
そう考えて改めて首を回して部屋を見回してみると、その感覚は更に濃度を増した。
思わず身震いをしてから、この場にいることがどうにも堪らなくなった稜は、ヴェランダに続くガラス戸を引き開けて外に出た。