Slow Love,Slow Kiss

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「俊輔・・・ですか?」
「ああ、もちろんここ10年の間に起きたことは知ってるよ、女性関係を含めて、すぐ傍で見てたからな。何人か女を囲ってたこともあるしさ。
 でも俺は未だ、あいつが何を思って生きてきたのか、本当のところ何を考えているのか、今一つ掴みきれていないような気がしてならない」

 グリッシーニの先で空中に奇妙な図形を描きながら、永山は独り言のような口調で言う。

「その囲っていた女たちが、最後に必ず言っていた事がある。姿形も性格も、全てが全く違う女たちが、まるで示し合わせたみたいに、同じ事を、同じ口調で言うんだ ―― 若頭は何をしていても、どんな事をしていても、冷めきっているって ―― それと、一度も寝顔を見たことがないって」

 稜は黙ったまま何も言わず、永山はそこで手にしたグリッシーニをぱきりと半分に折った。

「でもその女たちの話を何回か見聞きして、少しだけ分かったような気はした。
 あいつの世界にはおそらく、2種類の人間しかいないんだろうなってね」
「・・・2種類?」
 と、稜が聞く。
「そう。自分と、それ以外」
 と、永山は折ったグリッシーニの片方ずつを交互に空中に差し上げながら言う。
「あいつは自分以外の人間を、ぼんやりとした影絵みたいにして見ているところがある気がする。つまり、個々のものとして見ていないんだ。
 そんな風に世の中を見てきた奴の過去なんか、推察しようがねぇ」

 そこでも稜はやはり、何も言わなかった。

 だが永山の言葉に、稜は心当たりがあった ―― 寝顔やら、最中やらの話ではない。

 俊輔の寝顔など学生時代から散々見てきただけにそう特別なものに思えなかったし(たまたまそうなっただけなのではないかとさえ、稜は思った)、最中のことに関しては最初に訳が分からなくなってしまうのは稜の方なのだから、その後俊輔が冷めているかどうかなど、知る由もなかった。

 だが以前、大学時代の共通の知人であった男の名を稜が口にした時の、俊輔の態度 ―― あの時俊輔は、荒川の名を思いだそうとする素振りすら見せずに“覚えていない”と言い切った。
 その回答を聞いた稜は、俊輔は自分の問いなどにまともに取り合う気がないのだろうと虚しく思った訳だが、永山の推察が正しいとすると、あれは本当に覚えていなかったことになる。

 そうだったのかもしれないと、きっとそうだったのだろうと、稜は思った。

「・・・だからさ、俺はあいつがあんたのことで慌てたり、取り乱したりするのを見て ―― まぁ、困らされたこともあったが、基本ほっとしたんだよな」
「・・・俺に対しては、普段の傍若無人さが増しているだけな気もしますけれどね。
 他のみなさんの胃にも、入院治療寸前というような負担がかかっているという話ですし」
 軽く首を傾げて、稜が言う。
「そりゃあそうなんだが、ある意味それも貴重さ。あんたにしちゃ、迷惑千万ってところだろうが」
 手にしたグリッシーニの片方を齧りながら、永山が笑って言った。

 そこで本格的に料理が出て来始めたので、2人は暫し、食べることに集中する。

 店は内装や雰囲気も素晴らしかったが、料理の質も相当に高かった。

 サラダに使われている野菜は全て出す直前に手を入れられているのが良く分かったし、パスタに使われているペコリーノの選択も完璧だった ―― チーズにも各種あるが、ペコリーノというチーズは意外と選択が難しいのだ。
 そしてメインのアクア・パッツァに使われている鱸やあさりは、今の今まで母なる海に抱かれていたのではないかというくらいに身が引き締まっていて新鮮そのもので、トマトは荒々しいまでにきちんとトマトの味がした。
 恐らくはどこかのきちんとした農家から直送されているのだろう、こういう味のするトマトは、東京ではなかなか食べられない。

「で、つまり何が言いたいのかっていうと、それだけあんたの存在は貴重なんだってことだ」

 食事が終って皿やカラトリーの類が全て下げられ、それぞれの前にエスプレッソ・コーヒーが置かれたところで、永山が再び続ける。

 食事の間に色々考えていたのだろう、永山の口調からは先程までのゆっくりと考えながら話すような調子は払拭されていた。

「だから俺としちゃ、男だとか女だとかいう問題はもう、あまり関係がない。そんなこたぁどうでもいい、ちっちゃなことさ。
 だがこれは飽くまでも、俺側から見た勝手な言い分だ。だってあんたは違うだろう、全く違うはずだ、あんたは ―― と、そこで永山は突っかかるように言葉を途切らせてから、深い深いため息をつく ―― 明日、会うんだろう?」
「・・・え?」
 一瞬何を指摘されているのか分からず、稜は眉をひそめる。
「最後の彼女 ―― 元婚約者と、さ」

「なぜ、ご存じなんです」

 長い沈黙を破って、稜が言う。

「本人から聞いたのさ」

 エスプレッソを見下ろし、添えられた小さなスプーンの柄の縁をなぞりながら、永山が言う。

「・・・本人?」
「木下真由って言ったっけ?彼女本人が言ってたよ、俊輔に」
「・・・俊輔に?」
「そう ―― 彼女が偶然俊輔を見かけて、声をかけてきた。その時若頭にはちょうど俺がついていて、それで、俺も側で話を聞いていたんだが」

 と、説明されても、俄かには信じ難いような話だった。

 確かに真由は俊輔と顔を合わせたことがあったが、それは本当に、ちらりと顔を見ただけというようなレヴェルの話だ。
 その2人がこの大都会で、このタイミングで、顔を合わせるとは・・・ ――

「・・・しかしだったらどうしてあいつは、何も言わないんでしょうね。いつも、あんなに口うるさいのに」

 先程よりも短いものの、再度纏まった間をとった後、稜が独り言のように言う。
 永山は顔を伏せ気味にしたまま、複雑な形に首を振って苦笑する。

「いやいやそりゃあ、何も言えねぇだろうよ」
「 ―― どうしてです?」
「どうしてですってあんた、俺が俊輔の立場でも何も言えないさ ―― あいつはあんたに、負い目が山ほどあるんだろうしな」

 当たり前だろう。という風に永山が言い、稜は、負い目・・・。と舌の上あたりで呟き、小さく唇を噛む。

「今回初めて彼女を見たが、いや、いい女だな、あれは。素直で、はきはきしていて、可愛らしくて、本当の意味で頭が良さそうで ―― あんたが結婚しようと思ったのが、良く分かる。
 俊輔もきっとそう思っているだろうし、分かっているから何も言わなかったんだろう」

「分かっている?」
 と、稜は淡々とした声と表情で、繰り返す。

「そう ―― 元に戻られても仕方がない、と」
 と、永山はスプーンの柄に話しかけるような格好で、言った。