Night Tripper

10 : 優しい手、悲しい手

 俊輔が最初に通された部屋に戻った時、稜は縁側に座って庭を眺めていた。

「・・・誰か来たか?」
 その脇に立って行った俊輔が、訊ねる。
 喉を反らすようにして俊輔を見上げた稜は、無言でテーブルの上に置かれた1つの椀を指さす。
 そして再び庭の景色に視線を転じ、
「前に来たときも思ったけど、凄い庭だよな ―― なぁ、あそこの並木って、桜?」
 と、訊いた。
「・・・ああ、そうだ」
 稜の視線を追いかけて見てから、俊輔は頷く。
「花の時期は、相当見応えがあるらしい」
「らしいって・・・お前は見たことないのか?」
「花の時期、俺は一度もここへ来たことがない。ここの桜は絶対に見てやるものかと、決めていたからな」
「・・・どうして?」
「母が生前、桜の時期になる度に言っていたんだ ―― 桜はここの桜が一番だと、夢見るように美しいのだと、耳にタコが出来るほどね。だから、見たくなかった」

 俊輔が言い、稜は弾かれたように俊輔を見上げる。
 再会してから、俊輔が母親のことを口にするのは初めてのことだったのだ。
 驚いて見上げてくる稜を、俊輔はからかうような、しかしどことなく柔らかな視線で見下ろす。

「でもお前と一緒になら、今年は見てみるのもいいかもしれないな。
 毎年、花の時期には全国から駿河会の幹部連が集まって花見をしているんだが、俺はずっとすっぽかし続けていて、流石に言い訳のネタに困ってきたところでさ」
「・・・そんなところに俺に混ざれって言うのか、冗談だろう」
 思い切り顔を顰めて、稜はそっぽを向く。
 それもそうか。と俊輔は小さく声を上げて笑い、その手を稜の肩に置いた。
「さあ、帰るぞ」
「・・・もういいのか」
「ああ」

「・・・用事って、仕事の話だったのか?」
 盗み見るように俊輔の様子を見ながら、稜は訊いた。
「・・・まぁな、そんなようなものだ」
 微妙に稜から視線を逸らすようにして、俊輔は答えた。

「ふぅん・・・」
 と、稜は興味なさそうに言ってから、
「じゃあなんで俺まで、こんなところに連れて来られなきゃならなかったんだ」
 と、呟いてみる。

 まるでそれが聞こえなかったかのように俊輔は稜に背を向け ―― その背中を見ながら立ち上がった稜は、俊輔に気付かれないようにそっと、ため息をついた。

 駿河菖蒲が区切った1ヶ月という期間、稜は悩みに悩んだ。
 だが大袈裟でも何でもなく、1分1秒ごとに決心の針が左右に振れるような状態で、答えは杳として定まらない。

 それを見透かした訳でもあるまいが、“1ヶ月後に答えを聞きに行く”と言っていた駿河菖蒲は、約束の1ヶ月を過ぎても稜の前に姿を見せなかった。

 駿河菖蒲とのやりとりが全て夢だったのでは、とまでは稜も思わなかったが、このまま例の期限が忘れ去られはしないだろうか?、とは思った。
 少なくとも、稜が俊輔への想いを見極めるだけの間 ―― 果たしてどれ位の時間があればそれを見極められるのか、稜自身にも皆目見当がつかなかったが ―― 期限を延ばしてくれはしないか、と。

 だがその反面、彼らがそんなに甘くないであろうことも、稜は知っていた。
 何らかの理由があって、多少遅れることはあるかもしれない。
 だがああしてきっぱりと期限を切ったからにはいつか必ず、近いうちに、駿河菖蒲の命を受けた者が稜の前に姿を現すのは間違いない。

 それまでに何とか自分自身の心、特に俊輔への想いの方向性を見極めなければと稜は焦る。
 しかし焦れば焦るだけ、答えは混沌の渦の中に埋もれて行ってしまう。

 求める答えはいつも、ぎりぎりまで伸ばした手の先の、ほんの少し向こうにある気がした。

 そうして回答を掴み取れないまま、告げられた期限から半月を過ごした、ある夜。

 時計の針すら眠りについてしまいそうな深夜、稜は唐突に、眠りの世界から現実世界へと引き戻される。

 こんな真夜中にどうして、と思ったのと同時に、後ろから伸びてきた手が夜の空気に晒されていた稜の肩に布団を掛け直し ―― その手はそのまま、包み込むように稜の肩に触れてくる。
 それは普段稜を抱くときの強引な触れ方とは違い、単純にその身体が冷え切ってしまっていないかと、気遣う触れ方だった。

 俊輔のその、どこまでも甘く、優しい所作 ―― それを右肩に受けた刹那、身体のそこここに号泣の気配を感じた稜は息を詰め、強く強く、両目を瞑る。
 そして離れて行こうとした俊輔の手を、反射的に掴んでしまう。

「 ―― すまない、起こしたか」
 と、俊輔が言った。
「・・・いや、うん、まぁ・・・」
 と、稜は曖昧に言った。
「・・・お前、今日まで帰れないって言ってなかったか?」
「そう、予定ではね。
 でもどこかの誰かさんに会いたくて、車を飛ばしてみた」
 と、俊輔は笑う。
「お前が車を飛ばしたんじゃなく、皆川(みながわ)さんに車を飛ばさせたんだろう?日本語は正しく使えよ」
 言いがかりに近いような堅苦しい小言を言いながら、稜は身体中に芽生えかけた号泣の気配を力ずくでねじ伏せてゆく。
「はいはい、ご指摘のとおりです、すみませんね」
 口先だけで謝りながら、俊輔が稜の身体を強く引き寄せる。

 そのまま抱き締められ、口付けられて、否応なしに呼吸を乱されていった稜だった。

 だがすぐに苦笑混じりに名前を呼ばれ、稜は着ているシャツの前を ―― 俊輔が脱がしてゆこうとしているその先を ―― 拒むようにきつく掴んでいる自分に気付く。

 手を離せという俊輔の無言の求めにも、どうしてもその手から力を抜くことが出来ない。
 シャツを掴む手指の部分だけ、石化されてしまったかのように。

 強ばった手を優しく包み込まれ、そこに幾度も口付けられてようやく、何とかシャツを離したものの ―― これだから分からないのだ、と稜は苦々しく考えていた。

 触れて来た手を縋りつくように引き留めておきながら、次の瞬間、触れられることを拒んでしまう・・・ ――――

 そんな自分の気持ちが、自分のことながら、稜にはさっぱり理解出来なかった。

 だがそんな中でただひとつ、悟ったこともあった。

 そう、駿河菖蒲が言ったことは全て、過ぎるほどに的を射ていたのだ。

 俊輔が結婚した後でも、2人の気持ちが変わらなければ俊輔は稜のところに戻るだろうと、駿河菖蒲は言った。

 けれど結婚した俊輔が稜の元へだけ帰る訳に行かなくなるのは、当然のことだ。
 しかもこの世界にきちんとした後ろ盾がある駿河菖蒲と、何ら力のない、正に身一つの自分 ―― 分が悪いどころか、戦いにすらならないだろう、と稜は思う。
 しかしだからと言って自分は、それなら仕方がないと納得することは決して出来ないだろう。
 闇の中で触れて来る俊輔の手が甘ければ甘いほど、優しければ優しいほど自分は悶え苦しみ、そこから生じた葛藤を更に大きく、鋭いものにして俊輔にぶつけてしまうに違いない、と。

 それならば ―― 自分はもう、俊輔の元にはいられない。

 凍りつくような決意が胸に生じたのと同時に、体内が激しく焼き尽くされてゆく ―― そんな相反する感覚の狭間で、稜は悲鳴めいた声を上げる。

 蕩けきった稜の身体に溺れていた俊輔は、その声の裏に別の慟哭が隠されていることに、全く気付かなかった。