Night Tripper

11 : 本当の理由

 俊輔に対する自分の想いを見極められないまま、それでも稜が心を決めた数日後。

 国内外の企画営業部の統括をしている石田一也(いしだかずや)に、少し話があるので時間を作ってくれないかと言われ、稜は会社近くの喫茶店にいた。

「聞いたよ。辞表を出したって?」

 稜とテーブルを挟んで向かい合った石田一也は、注文したコーヒーを一口飲んでから、言った。

「はい、事情がありまして」
「転職か?」
「いいえ」
「引き抜きとか?」
「いいえ、そういうのではありません。
 実を言うと、ずっと寝たきりだった父親の具合が良くないもので・・・暫く側に付いていたいと思っているんです」
「ああ・・・、そういえば以前、事故に遭われたと聞いたな」
「ええ、神戸にいる伯母が父の世話をしてくれていたのですが、もう長くないだろうと医者に言われたと・・・
 父のことはずっと伯母に任せきりだったもので、最後くらいはきちんと側にいたいんです」

 それは、嘘ではなかった。
 今日明日というような急な話ではないものの、父が先行き長くないだろうから、覚悟しておきなさいという話は、数ヶ月前から伯母に言われていたのだ。
 こんな風にずっと側に付き添うことが可能であるとは思っていなかったが、今回俊輔の一件があって決心がついたのだった。

 そんな稜の答えを聞いた石田は少しの間、じっと稜を見詰めていたが、やがてひとつ息をつき、
「それは本当に、本当の理由か?」
 と、静かな声で訊いた。

 目の前に座る石田一也という統括部長が、物腰の柔らかさや、派手派手しい ―― 見ようによっては軽々しい ―― 外見とは裏腹に、相当の切れ者あることは理解していた。
 むろん、そうでなければ国内・海外の企画営業部のトップなどという地位を任されたりしないのは当然だが、外見がテレビなどで良く見るちゃらちゃらしたタレント的な存在と完全に被るので、どうにも対応感覚が乱されてしまうのだ。

「 ―― 立ち入ったことを訊いてもいいか」
 返答に詰まった稜を真っ直ぐに見たまま、石田は訊いた。
「・・・どうでしょう」
 首を傾げて、稜は言った。
「その、“どうでしょう”というのは、何も聞いてくれるなという意味か?」
「いいえ、そうではありませんが、訊かれても答えられることと、答えられないことがありますので」

 稜のその答えを聞いた石田は声を上げて笑い、上げた右手の人差し指で小さくこめかみを掻いた。

「志筑のそういう物言いや反応、本当に面白いよなぁ・・・うーん、じゃあ答えられたら答えてくれ。
 志筑、ここのところ・・・そうだな、この1年位の間で、何かあったんじゃないのか」
「・・・何か、とは?」
 内心少々緊張して、稜は訊き返す。
「志筑、ここ1年くらい、休みがちだろう」
 稜の緊張を見て取っているのかいないのか、普通の調子で石田一也は説明し始める。
 そしてそこで口を開きかけた稜を、手を挙げて止める。
「いや、誤解しないで欲しいんだが、それがいけないと言っている訳じゃないんだ。志筑みたいに仕事できちんとした成果を出せるのであれば、極端な話、週休5日とかでも構わないと俺は本気で思ってる。
 だけど、志筑のここ最近の休みのとり方がどうにも気にかかるんだ。以前と余りに違いすぎるように感じてね。
 それと同時に仕事に対する姿勢が変わったのなら納得もするんだけどさ、そうじゃないだけに、更にな」

 そこで石田一也は言葉を切り、コーヒーを口にした。
 稜は黙って、話の続きを待つ。

「だから・・・、ここ1年くらいの間に、何かあったんじゃないのかと思ってね、何か ―― 自分の力ではどうにもならないことがさ」
「・・・そうですね・・・、確かにこの1、2年で、実に色々なことがありました」
 目の前の石田一也には、誤魔化しても無駄だろうと思った稜は、正直に答える。
「しかし会社を辞める直接的な理由は、そこにはありません。
 きっかけになっているのは確かですが、それは単なるきっかけに過ぎないというか・・・問題は、私自身の中にあるんです」
「・・・なるほどね。
 それじゃあ神戸の方で就職を捜すのか?」
「いえ、それもまだなにも・・・。
 当座を凌げる程度の蓄えはあるので、暫くは伯母に代わって父に付き添うつもりです」
「こっちに戻って来る気はあるのか?」
「ええと・・・、そう、ですね・・・。
 最終的にはそうなるかもしれませんが、本当にまだなにも決めていないんです」
「そうか。
 うん、いや、会社に関して問題がないのなら、退職ではなく休職っていう手もあると思うんだが、それは考えてもらえないのかな、と思ってね」
「・・・しかし・・・、期間がどれくらいになるかまだ分からないですし、決めてもいないんです。
 それに私事で長期に渡って仕事を休んでご迷惑をおかけするのも、心苦しい気がしますし」
「迷惑という話をするのなら」
 と、石田一也は言い、コーヒーカップを10センチばかり右に動かした。
 そして、
「志筑みたいな有能な人間が他社に ―― 特に競合他社なんかに行かれた方が、余程迷惑なんだよなぁ。
 どうだろう、まず取り敢えずは退職ではなく、休職する方向で考えてみて貰えないかな」
 と、おどけた言い方で言った。

 他の人間に言われたらカチンとくるかもしれないような、それはそんなセリフと言い方だったかもしれない。
 だが冗談めかした風の表情とは裏腹に石田一也の目は完全に真剣だったので、全く嫌な気分にはならなかった。

 それだけに稜はとっさに答えることが出来ない。
 会社自体には何ら不満はなかっただけに、尚更だった。

 稜が会社を辞めようと考えたその理由は飽くまでも、俊輔との関係を断ち切らなければならないと思い極めたからに他ならない。
 無論、何年も仕事にかまけて人任せにしてきた父親の側にいることが、自分に出来る最後の親孝行かも知れないと思ったのもあった。
 だがそれは飽くまでも後付けの理由だ ―― 思えばこの行為は、親孝行と親不孝を左右の手で同時にやっているようなものでもあるのだと、稜は苦々しく考えた。

 考え込む稜の様子を確認してから、石田一也は続ける。
「休職する場合、とりあえず1年休んで様子を見てみてもらうことになる。その後は1ヶ月単位で期間は延長される。休職期間が2年を超える場合、それ以上の延長は難しいだろうけどな」

 そう言われてもなお、稜は返事が出来なかった。

“事が収まるところに収まるまでは、俊輔の前から姿を消していろ”
 と、佐藤要は稜に言った。

“覚悟が出来ないのであれば、半年から1年の間、東京を離れていて下さい”
 と、駿河菖蒲は稜に言った。

 それはつまり俊輔と駿河菖蒲が結婚した後であれば、稜がどこにいようと、例え2人がその後再び会うようになっても ―― 結婚した俊輔とあんな関係を続けることを、稜が善しと出来るかどうかは別として ―― 構わないと言うことなのだろう。

 だとしたら今の職場に復職出来る道を、残せるものなら残しておくべきかもしれない。
 就職難だと騒がれる昨今、それなりに満足して働ける就職先を再び探し出すのは至難の業であることは想像に難くないのだ、だが、しかし・・・ ――――

 小さく唇を噛んで考え込む稜に、

 2、3日、良く考えて、返事をして欲しい。

 と、石田一也は少し間を開けた後で、告げた。