12 : 言葉にしない想い
石田一也との話を終え、喫茶店の前で彼と別れた稜は、その足で1時間後に訪問を予定していた営業先へと向かった。
向かった先は一般的に有名な訳ではないが、海外への輸出入をしている業者間では昔から広くその名を知られている、輸入代行会社だった。
新宿の南口から歩いて数分のところにある高層ビルの最上階に事務所があるのだが、有名な企業が多く入っているそのビルはいつ行っても人が絶えない。
従ってエレベーターもいつも混雑していて、最初に訪問した際など、約束の時間10分前にビルに着いていたのに上に到着出来たのは時間ぎりぎりで、酷く焦らされた苦い経験があった。
その為この会社を訪問する際、少なくとも20分前にはビル内に入るようにしている稜だった。
老舗高層ビルで、有名企業が山ほど入っているのだから、階層ごとにエレベーターの行き先を振り分けてくれよ・・・。
ここへ来る度に思う文句を口中で呟きながらビルに入った稜だったが、不思議なことにビル内はいつもと違って人の姿はまばらだった。
エレベーターもそう待たされることなくやってきて、しかも中には女性が1人乗っているだけであった。
こういうこともあるのか。と思いつつエレベーターのパネルで最上階を指定し、扉を閉めたところで、
「私のこと、お分かりになりませんでしたね」
と、後ろから唐突に笑いを含んだ声をかけられた稜は、驚いて振り返る。
地下駐車場から乗ってきたのだろう、最初からエレベーター内にいた濃い灰色のスーツに身を包み、渦を巻く艶やかな長い髪の女性が微かに笑って稜を見ていた。
きっちりと引かれたアイラインとアイメイク、深紅のルージュ ―― 斜め後ろに立つその女性をよくよく観察してみて初めて、稜はそこに立っているのが駿河菖蒲であることに気付く。
「・・・ああ、菖蒲さんでしたか、すみません、全く気付きませんでした」
稜は言い、言いながら、何というタイミングの良さなのだと感心していた。
稜が心を決めたこと、そしてここで2人きりになれることを見計らったかのように姿を現すやり方が、尋常でない。
超能力を有しているではないかと、そんなことを思ってしまうほどだ。
「女は、化粧でいくらでも変身が効くんです」
小さく笑い声をあげながら駿河菖蒲は言い、それから黙った。
「・・・1ヶ月後くらいまでには、東京を離れる予定です」
意味深な沈黙を長引かせないうちに、稜は言った。
「・・・それで、よろしいのですか」
ゆっくりと上昇してゆくエレベーターの階数表示を見ながら、駿河菖蒲は確認した。
もちろんです、と稜は頷く。
そうですか、と駿河菖蒲も頷く。
「会社は最長2年を目処に休職出来るらしいので、1年後以降に東京方面へ戻ろうと思います。それは構わないでしょうか」
「志筑さんにも生活がおありでしょうから、もちろん、それは構いませんが ―― その間、どちらに行かれるおつもりですか?」
「・・・それも、言わなければなりませんか」
稜は静かに問い、駿河菖蒲を振り返って見た。
駿河菖蒲は答えず、じっと稜を見ていた。
「会わないという言葉だけでは、信用出来ないと思われるのは当然かもしれません。しかし私としては正直に言って、断ち切ると決めたからにはもう金輪際、あなた方とは係わり合いたくないのです。
私から彼へ連絡を入れたり、会おうとしたりすることは誓ってありませんので、その点はご心配なく」
「そのような心配はしておりません。志筑さんが嘘などつかれる方でないのは、分かっておりますから」
当然のように言い切った駿河菖蒲のその言葉を聞き、稜は思わず吹き出してしまう。
「・・・何かおかしいですか?」
気を悪くした風もなく、駿河菖蒲が訊いた。
「失礼しました、しかし ―― 私が嘘をつかないなどと、たった2度会っただけで分かるのですか?」
笑ってしまった口元を手で押さえて、稜が訊いた。
「もちろんです」
と、駿河菖蒲は自信たっぷりな口調で言う。
「1度会っただけであろうと、分かる方のことは分かります。分からない方のことは例え一生涯かけようとも、分からないものです」
「・・・なるほど」
と、稜は言った。
一概にそう言い切れはしないだろうが、駿河菖蒲のきっぱりとした言い方を聞いていると、大体そんなものかもしれないと思えてくる。
「ただ私は、志筑さんを心配しているだけです」、流れた短い沈黙を破って、駿河菖蒲は続ける。
「私が?心配?」、首を傾げて、稜は言う。
駿河菖蒲は首を縦に振り、階数表示パネルを見上げた。
稜もそれにつられるように、エレベーター扉上の電光掲示板を確認する。
移り行く数値は、残された時間がそう長くないことを示していた。
「・・・志筑さんはご自分で思っていらっしゃるよりもずっと、重要かつ危うい立場におられるのです。
私たちと関わりたくないというお気持ちは分かりますので、これ以上お尋ねしませんが・・・。
但し当分の間、知らない人間と話をしないこと、声をかけられても隙を見せたり、安易に付いて行ったりしないこと ―― これだけは絶対に守ってください。いいですね」
駿河菖蒲は真剣な口調で言ったが、稜は内心、おいおい、一体何を言いだすんだよ、と呆れていた。
駿河菖蒲が口にした注意はどう考えても、3歳児に母親がするような注意だ。
32歳にもなった稜に向かって言うこととは思えない。
だが駿河菖蒲の口調や表情が至って真面目だったので一応大人しく、分かりました。と言い ―― そこでエレベーターはビルの最上階に到着した。
そこで稜だけがエレベーターから降り、駿河菖蒲はそのままエレベーター内に残る。
前回同様、駿河菖蒲は無言であり、稜もそんな彼女を黙って見送ろうとした。
が、扉が閉まる寸前のところで、稜は反射的に閉まりかけた扉を押さえてしまう。
そして衝動のままに、俊輔のことをよろしく頼むと口走りかけ ―― 慌ててその余計なお節介極まりないであろう言葉を飲み込んだ。
「・・・今回、菖蒲さんが考える時間を作って下さったからこそ、こうして自分で自分の取るべき道を見定めることが出来ました」
稜の行動を見ても表情一つ動かさない ―― 稜の言動の全てを予め、予想していたのではないかとすら感じられた ―― 駿河菖蒲に、稜は言った。
「きちんと、お礼を言わなければと思っていたのです。どうもありがとうございました」
そう礼を言った稜を駿河菖蒲は暫くの間、エレベーターの一番奥に立ったまま黙って見ていた。
彼女の目の奥には以前横浜の屋敷で見た時と同様、密やかなメッセージが刻まれている気がした。
だがやはりそのメッセージは、どんなに目をこらしてみても読みとれない。
やがて駿河菖蒲はすっと目を伏せ、複雑な形に首を振る。
それは首を横に振っているようにも、頷いているようにも見えた。
「・・・さようなら」、手で押さえていた扉を離して、稜は言った。
「・・・お元気で」、閉まってゆく扉の隙間の向こうで、駿河菖蒲が言った。