Night Tripper

13 : アンバランス

 東京を離れることを決意した後、最初のうちは、あれとあれは持って行って、これとこれは処分して・・・などと考えたり、悩んだりしていた稜だった。

 だがかなり早い段階で、それが実に下らない行為であることを悟る。

 必要なものは向こうで買い直せばいいし、そもそも今回の場合、引っ越し業者を呼ぶどころか、ボストンバック一つ持ち出せないのだ。
 いつもと違う格好をしたり、いつもと違う大きさの荷物を持ち出そうとしたりすれば、怪しまれるに決まっている。

 そこに気付いてしまうと、後のことは非常に楽になった。

 経堂のマンションの更新はもちろんせず、出来る範囲で部屋の片付けをしてから、後のことは駿河菖蒲に連絡をして任せた。

 会社での業務も、引き継ぎ出来ることは引き継ぎ、稜が電話で連絡や指示が出来ることに関しては稜がそのまま受け持つことになった。
 今後1~2年、全くの無給という訳ではなくなったので、その点は非常に有り難かった。

 退職ではなく休職だから。という理由で、送別会の類も全て断った。
 どこからどうやって情報が俊輔に流れてしまうか分かったものではないので、変に派手な飲み会を催されたり、ましてやその場で花など渡されたら、言い訳が出来ないのだ。

 裏でそういったレヴェルの細かい対応をこっそりとする他、稜はいつも通りの生活を、いつも通りに続けた。
 これまでと違う点はただひとつ、この生活の終りの日を稜が心の中ではっきりと定めている、というだけだ。

 そしてあっという間に1ヶ月が過ぎ去ってゆき、稜が最終日と定めた、その日。

 最後くらいはいつも朝の早い俊輔を、偶然目が覚めてしまった。という演技で見送ってやろうと思っていたのに、その朝起きてみると、既に俊輔はいなかった。
 ほぼ毎日俊輔が出掛けている時間には起きたのだが、今日に限っていつもより早く出掛けたらしい。

 普段やりつけていないことをしようとすると、こうなるんだよな。
 まぁ、少しでも疑念を抱かれたりしては困るのだから、これで良かったのかもしれないが・・・。

 ぼんやりとした頭でそう考えながらシャワールームへ向かおうとした稜は、途中、リビングのテーブルに小さな紙片が置かれていることに気付く。
 横目でそれを見ながらそのままシャワールームへと向かい、頭から熱いシャワーを浴びて強引に身体と精神を覚醒させる。
 それから濡れた髪を乾かし、時間をかけて歯を磨き、丁寧に口を濯ぎ、身支度を整えてゆく。

 後はジャケットを着るだけで出掛けられる。という段階になったところで稜はリビングに戻り、テーブルの上の紙片を手に取った。

 紙片には俊輔の字で、
 どうもおまえは最近痩せたように思うから、食事はきちんと摂るように、
 朝食を冷蔵庫に入れておいてやったから食べてから会社に行くように、
 今日はおそらく帰れないが明日は早く帰れると思う、夜に何か食べさせてやるから食べたいものを考えておけ、
 と、いうような内容が走り書かれていた。

 その文章を2度読み返してから、稜は紙片を半分に折りたたんで手帳に挟んだ。
 そして冷蔵庫に向かい、中を覗いてみる。

 冷蔵庫の中にはサーモンとレタスのサンドウィッチと、クリーム・スープと、グレープ・フルーツが入っていた。
 稜は暫くそれらを眺めてからポケットに手を突っ込み、取り出したマンションのキーをクリーム・スープとグレープ・フルーツの皿の中間手前寄りに置いた。

 どう角度を変えてみても、どうにも収まりの悪い、アンバランスに過ぎる光景だった。
 高島野十郎あたりに頼めば、アンバランスなそれらを、どこか悲哀めいた独自の作品世界に昇華してくれるかもしれなかった。
 だが残念なことに高島野十郎はとっくの昔に死んでいて、新しい作品を産み出しはしない。
 故にサーモン・レタス・サンドウィッチとクリーム・スープとグレープ・フルーツとマンションのキーは、ちぐはぐでアンバランスな状態のまま、冷たく乾いた冷蔵庫内で干からびて行くのだ。

 稜はため息をつきながら冷蔵庫の扉を両手で閉め、閉めたところではたと動きを止める ―― 扉を閉めた手の片方、左手の薬指にはめられた指輪 ―― これも鍵と共に、置いて行くべきだろうか。

 そのシンプルな指輪を右手の親指と人差し指で回すようにしながら、稜は考える。

 普通に考えれば、置いて行くべきだろう。
 残された指輪を見れば、俊輔は稜の決意のほどを限りなく正確に理解するはずだった。

 しかし・・・ ――――

 指輪は、はめておけ。いつも ―― 分かったな。

 俊輔の声が ―― 命令めいた、しかし実は命令でない、懇願にも似た俊輔の掠れた声が、耳元に鮮烈に蘇る。
 反射的に稜は顔を伏せ、上げた両手で両耳を塞いだが、俊輔の声は鼓膜に刻印されてしまったかのように、消えてくれない。

 きつく唇を噛み、耳を封じ、目を閉じたまま、稜は沸き上がる感情の激しいうねりが静まるのを待つ。
 長い時間をかけて感情が凪ぐのを確認してから、稜は閉じていた目をゆっくりと開けた。

 目の前に広がる世界は普段と何ら変わることなく、今日を最後にここへは二度と戻らないということが、なんだか信じられないような気がする。

 とりあえず今の段階で左手の指輪について考えるのはやめよう。

 静かな室内に低く響くエアー・コンディショナーの音を聞きながら、稜は考えた。

 俊輔との関係を自分の中できちんと受け止められないままこんなことになり、混乱しているのだ。
 今の今、何もかも全てをいっぺんに処理しようとしても、混乱は深まるばかりだろう。
 俊輔に関することは今後ゆっくりと考えて、ひとつひとつ消化して、整理してゆけばいい。時間は山ほどあるのだ。
 時が経ち、自分の気持ちに何らかのけりがつけられたら、処分するなりなんなり、すれば良いのだ。

 それに指輪一つのことであっても、見咎められて怪しまれては元も子もない ―― 言い訳めいてすら聞こえるそんな思いを胸に、稜はリビングへと戻り、ブリーフケースのみを手に部屋を後にした。

 マンション下にはいつも通り辻村組の舎弟たちがいたが、時間は稜が普段会社に出掛ける頃合だったので問題はなかった。
 軽い会釈をしてその場を何気なく通り過ごし、品川駅に向かい、普段通りのプラット・フォームから電車に乗り込む。
 普段虎ノ門への乗換えで使っている新橋の駅を乗り越した稜が東京駅に着いたのは、乗る予定の新幹線が発車する15分ほど前だった。

 手にしたチケットと列車に表示された車両番号を見比べながら、稜はプラット・フォームを足早に歩いてゆく。
 そして予約した座席のある車両に辿り付き、中に乗り込もうとした、その時 ――――

「志筑さん」

 と、呼びかけられ、反射的に振り返った稜は、鋭く息を呑む。

 そこには相変わらずひとかけらの感情も浮かんでいない、能面のような顔をした、相良伊織が立っていた。