14 : あなたは分かっていない
「相良さん・・・」
と、稜は囁くように呟いた。
「どちらへ?」
と、相良伊織は平坦な声で訊ねた。
稜は何も言わなかった ―― 言えなかった。言えるはずもなかった。
今回の件に関して駿河菖蒲と幾度かやりとりをする中で彼女は、稜に見張りの類がつけられていないかどうか、一応調べてみる。と言った。
そんな必要はないと稜は思い、その稜の予測通り、結果はそういう者はいないようだ。というものだった。
当たり前だ、俊輔が今更自分に対して、そんなことをする訳がないじゃないか。
回答を聞いて稜はそう思ったのだが、そうとばかりは言えなかったようだ。
何故疑われることになったのか ―― 皆目見当がつかなかったし、ここ最近の自分の言動を思い返してみても、思い当たる節はまるでない。
だがこうして相良伊織が出てきたところを見ると、駿河菖蒲が調べた後に何らかの疑念を抱いた俊輔が、稜に見張りをつけたということになるのだろう。
稜は身体中の酸素を吐き出すような、深い深い、ため息をつく。
「それで、もう一人の方はどちらにいらっしゃるのですか?」
辺りを見回して、稜は訊いた。
こういった見張りの任務の際、彼らがペアで行動をすることを、稜は知っていた。
「もしかして、俊輔を呼びに行っているのですか」
訊ねる稜を黙って見詰めていた相良伊織がやがて、首を小さく横に振った。
それを見た稜の眉根が、微かに寄せられる。
「・・・他に、誰かいらっしゃるのでしょう?」
稜が訊き、相良伊織は再び首を横に振る。
「・・・俊輔の命令で来たんですよね?」
重ねて稜が訊き、相良伊織はその問いにも首を横に振る。
「・・・それでは他の幹部の方・・・永山さんの命令とか・・・?」
混乱を深めた稜が訊き、やはり相良は首を横に振った。
「・・・でしたら相良さん、あなたはどうしてここにいらっしゃるのです」
激しい混乱を覚えながら、稜は訊いた。
「あの日からずっと、あなたを見ていた」
低い声で、相良伊織は答えた。
「『あの日』・・・?」
呟くように、稜は繰り返す。
「 ―― あの日・・・あなたがあの方と共に本家に連れて行かれたと聞いた、あの日からです」
相良伊織が答え ―― そんな最初の段階からか。と稜はきつく唇を引き結んだまま、黙り込む。
「本家のやり口を、私は誰より知っている」
感情のこもらない視線で稜を見下ろして、相良伊織は続ける。
「彼らが何も言わずにあなたを帰すなど・・・有り得ないと思った。だから、見ていた ―― 個人的に」
「個人的・・・、と、いうことは、相良さんが、お一人で・・・?」
問われた相良伊織がそこで首を縦に振って頷き、それを見た稜は彼の方に身体を乗り出すようにして、その腕を強く掴む。
「見逃して下さい」
と、稜は言った。
「俊輔の結婚の話は聞きました。それならば私はもう、彼の元にはいられない、どうしても。
私が彼の元に留まったら、誰も幸せになれない ―― 相良さん、どうかお願いです。私のことは、見なかったことにして下さい」
必死になってそう懇願しながらも、稜は自分の願いが聞き届けられるとは、露ほども考えていなかった。
目の前にいる相良伊織が、盲従というのがぴったりくるほど俊輔には逆らわないのを、稜はもちろん知っていた。
彼は俊輔が“太陽は南から昇る”と言ったなら、少しも躊躇わずに太陽の進行方向を変えようとするだろう。
そんな男にこんなことを頼んでみても、どうにかなる筈がない。
ただ見咎められたからと言ってすんなりと諦める訳にはいかず、往生際悪く足掻いてみていただけだ。
「 ―― それで、どうするのです」
やがて静かな声で、相良伊織が訊く。
「・・・どうする、とは・・・?」
意味が分からずに、稜が訊き返す。
「私があなたを見なかったことにしたとして、それからどうするのかと訊いているのです。
まさかほんの数時間電車に乗って行ける場所に移動しただけで、我々の手から逃れられるとお考えではないでしょう」
表情も声も、恐ろしいまでに無表情な相良伊織にそう指摘されると、稜は何だか、自分が酷く馬鹿げた存在であるように思えてきた。
確かにその世界で長らく生きてきた人間からしてみれば、稜の行動は実に下らない、無意味な抵抗にしか見えないのだろう。
だが実際、稜にとってはこれが精一杯なのだ。
他にもっといい方法があるのなら教えてくれ、と稜は思う。
「つまり、私がどう抗っても意味などない、とおっしゃっているのですね」
「いいえ」
「黙って大人しく元に戻っておけ、と?」
「いいえ」
「では・・・それこそ私に、どうしろと言うんです」
徐々に投げやりな口調になって、稜は言った。
「別にあなたはそのままで結構です」
何も期待などしていない。という意思がはっきりと滲む声音で、相良伊織は言った。
その言い方を聞いた稜は反射的にむっとして顔をしかめたが、気にせずに相良伊織は、
「その代わり、私もご一緒させて頂きます」
と、言い ―― 思いもかけないその言葉に、稜はあんぐりと口を開け、相良伊織を見上げる。
目の前の男が何を言っているのか、稜には全く理解出来なかった。
“私もご一緒させて頂きます”・・・?
一体どこに、誰と行くと言っているのだ、この男は?
ぽかんとして立ち尽くす稜の腕を、相良伊織が優しい訳でも、と言って乱暴な訳でもない、中立的なやり方で掴んだ。
「座席はこちらです」
いつの間に購入したのか、2枚のチケットを手にしている相良伊織を見て、稜はようやく我に返る。
「ちょ、ちょっと・・・、待って下さい。相良さんが私と一緒にいて、逐一俊輔に連絡を取るのでは意味がない」
「そんなことはしない」
あっさりと、相良伊織が言った。
「信じられると思うのですか、そんな言葉が」
強い口調で、稜が言った。
「相良さん、あなたがどれほど俊輔に忠誠を尽くしているか、私が知らないとでも思うのですか?
あなたが俊輔に背いて私を助けるなど ―― 有り得ない。そんな話を易々と信じるほど、私は馬鹿でも間抜けでもありませんよ」
激しい口調で言い募る稜を、相良伊織は心底呆れ果てたような視線で見た。
そして言う、「私があの方に背いて、あなたを助ける?」
嘲りの匂いすら漂う相良伊織のその口調を聞いて、稜はぐっと言葉に詰まる。
相良伊織は冷たく続ける。
「確かに私のこの行為は、あの方の本意には沿わない。
私がこんなことをする理由はただひとつ、あの方にとって最悪の事態となる結末だけは回避したい ―― そう思っているからに他ならない」
発車時間が近付いてきているというアナウンスがプラット・フォームに流れ、それを合図とするように、相良伊織は今までよりもやや強引なやり方で稜を該当車両へと導きながら歩き出す。
「・・・最悪の事態?」
有無を言わせないといった雰囲気の相良伊織に腕を引かれるまま歩きながら、稜が言う。
「あなたに万一のことがあったら ―― あの方の全てが、そこで終る」
「・・・そんな、大袈裟な・・・」
新幹線の最後尾、一番奥の席に案内された稜は、そう言って笑おうとした。
だが鋭い勢いで振り向いた相良伊織の視線に射抜かれた瞬間、稜の口元に浮かびかけた笑いは、砂漠に落とされた一滴の水滴のように、あっと言う間に蒸発して消えてしまう。
「あなたは何も分かっていない」
長い長い沈黙の間、一瞬の隙もなく、睨み据えるように稜を見ていた相良が呟く。
「あの方は、あなたほど強くない」
地を這うような相良伊織のその声に、稜はもう何一つ、言えなくなる。
そんな稜から冷たく視線を外した相良伊織は、小虫一匹の出入りすら見逃さないといった厳しい目で、車両前方にある出入り口へと視線を注いだ。