16 : 失われた楽園
三枝の気配が完全に部屋から消えたのを確認してから、永山はひとつ息をつき、俊輔の方へ向き直る。
「おい、筆頭 ―― 俊輔、大丈夫か?」
俊輔は小さく頷いたがすぐに力なく首を横に振り、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「・・・なぁ、お前、本当に何も聞いてなかったのか」
と、永山が改めて尋ねる。
俊輔が無言で頷き、それを見た永山はこきこきと首の骨を鳴らすようにしてから、首を左側に傾けた。
「今更言った所で仕方ねぇけどさ・・・久々に会ったなら、まずそこんとこは確認するもんだろうが、普通」
俊輔は答えない ―― 永山のその指摘に反論の余地など、あろうはずもなかった。
俊輔は今の今まで、稜の家族と死というものを、一緒にして考えたことがなかったのだ。
何故だろう ―― 今にして思えば、滑稽なほどに不思議だ。
だが稜の家族と死という対比は、水と油のそれと同様、絶対に相入れないものであると、無意識のうちに思い込んでいた。
再会して少し後、稜はかつての知人が口にしていた話として、俊輔に言った ―― 俊輔は家族に恵まれていないから、他人の家に招待されるというようなシチュエイションを酷く嫌っていた、と。
確かにそれを、否定はしない。
後半部分は、特に。
父親がいなくて可哀想だから、
母親が殆ど家にいなくて寂しいだろうから、
母親が水商売をして生計を立てているなんて哀れだから ――――
口に出して言わなくとも、そういう一方的な同情から派生する施しを、俊輔は何よりも憎悪していた。
確かに生活は常に苦しかった。
食べるものが満足になかったことも、少なからずあった。
しかし俊輔にとって父親がいないのも、母親が不在がちなのも、生活が苦しいのも、いつものことだった。
言ってみれば、それが普通だった。
自分を可哀想だとも、寂しいとも、哀れだとも、思ったことはなかった。
それなのにただ表面だけを見て可哀想だなどと簡単に言ってのける人間が、俊輔は本当に、本当に、嫌いだったのだ。
だがそんな中で唯一、稜の家族だけが違った。
稜の家は、彼の両親と姉、両親のそれぞれの親、そして時には何らかの理由で親類までもが転がり込んで一緒に暮らしているような大所帯であった。
しかしそのうちの誰一人として、俊輔の境遇を見て可哀想だとか哀れだとか、言わなかった。少なくともそういう素振りを、俊輔には決して見せなかった。
何の気なしに、今日は母親が仕事でいないのだと言うと、毎回毎回当たり前のように、じゃあ泊まっていけるな。と言った稜の父親。
俊輔の箸の使い方がなっていないと、綺麗に使えるようになるまで特訓することを諦めなかった、稜の母方の祖父。
箍が外れすぎじゃないか?と心配になるくらい、沢山の料理を作り続ける、2人の祖母。
それを死ぬほど食べているというのに、「男の子はもっと食べないと。ねぇちょっと、なにも遠慮することないのよ」と何度も言ってきた稜の母親。
当時婚約して間もなかった稜の姉の、美しく、光輝くような、幸福に満ちた笑顔。
そんな周りの喧噪の中、ひとり静かに微笑みながら、俊輔と稜が未成年だというのを気にせずに酒を勧め続ける、稜の父方の祖父・・・ ――――
彼らが暮らすあの場所は俊輔にとって、ブライアン・ウィルソンが歌う歌詞の中のカリフォルニアのように、永遠に常夏の楽園のような場所だった。
あの場所に死などという無粋なものが入り込む余地など、あろうはずがないと思っていた。
彼らの上に死という残酷な鉄槌が下されているなどと、想像すら出来なかったのだ。
「・・・あの人たちが死ぬなんて・・・、考えてもみなかった・・・」
ぼんやりと遠くを見るような目つきと口振りで、俊輔が呟く。
そんな俊輔の視線と声音を見聞きした永山は、俊輔が何故ああも激しく稜に執着していたのか、その理由を初めて、正確に理解する。
終りの見えない逃亡生活を送っていた俊輔の家庭が、家族団欒的なものから程遠かったことは想像に難くない。
そんな俊輔が稜と知り合い、どういう経緯を辿ったのかは知らないが ―― 恐らくは屈託のない稜の強引な誘いに寄る所が大きかったのではないかと、永山は推察した ―― 家族ぐるみの付き合いをするような所まで踏み込んだ付き合いをするようになった。
それは画期的というか僥倖というか、既に奇跡というのに等しい出来事だっただろう。
そして生まれて初めてそういう世界に触れたであろう俊輔にとってそれは、どうあっても忘れられないほどに強烈な憧憬を内包する記憶であったに違いない。
その憧憬の核とも言える稜が10年後、図らずも目の前に現れ ―― 憧れの世界を我がものにしたいという欲望に、抗うことが出来なかったのだ。
哀れな男だ ―― ポケットに両手を突っ込んだまま俊輔を見下ろし、永山は思う。
自ら欲し、守ろうと思ったものの悉くを掴み損ね、欲っしていないものばかりを押しつけられ、守ることを強要されている男。
こんなことが続けば、いずれこの男は駄目になる。
相良が言うまでもなく、永山もそれは理解していた。
しかしだからといって、やめるわけにはいかない。
列車は走り出している。
導線に火は点けられている。
もう誰にも、止められないのだ。
与えられた可能性の中で何とか突破口を見い出し、騙し騙しであっても、行き当たりばったりのようなやり方をしてでも、前に進んで行くしかないのだ。
「それで ―― お前、これからどうする」
迷う気持ちを振り払い、厳しい口調を取り繕い、永山は言う。
「・・・何が?」
俯かせていた顔を上げて、俊輔が言う。
「おいおい、寝ぼけないでくれ ―― と永山は大げさに肩を竦めて見せる ―― 志筑さんは遅かれ早かれ見つかる。その後どうする気かと訊いている」
「・・・それは・・・」
「選択肢は、4つある」
デスクの上のペン立てから4本のペンを取り出し、それを答えあぐねる俊輔の目の前に翳して見せながら、永山は言った。
そして一番左端のペンだけを、俊輔の方に押し出す。
「まずひとつめ。
志筑さんとは再会しなかったことにして諦めて、菖蒲と結婚する」
俊輔は押し黙ったまま、何も言わない。
次に永山は中央左側のペンを、俊輔に向けて押し出す。
「ふたつめ。
とりあえず菖蒲とは結婚するが、志筑さんのことは現状のままとする。
この場合志筑さんの反発は必至だろうが、まぁ、それは俺に任せろ。お前が望むのなら、一生あの人をどこかに監禁しておいてやる」
俊輔の顔が微かに顰められたが永山は気にせず、中央右側のペンを動かす。
「みっつめ。
志筑さんを連れて逃げる。いわば愛の逃避行。
駿河会の執拗な追っ手がかかって大変だろうが、お前はその辺のやり方は熟知しているだろうし、今は俺たちのやり口も分かってるだろうからな。
万にひとつの可能性ではあるが、うまくいけば一生逃げ続けられるかもしれない」
「・・・お前・・・俺を馬鹿にしているのか?」
今度こそ激しく顔を顰めた俊輔が、じろりと永山を睨んだ。
「とんでもない。俺は可能性の全てを提示しているだけさ」
至極真面目な顔で永山は言ってのけ、続いて左手に取った一番右端のペンの先を、空間で揺らした。
「で、これが最後の選択肢だ。
恐らくこれは一番難しくて、厄介で、危険な手だ。そしてお前が一番嫌がるであろう手でもある」
そう言って差し出されたペンと永山を一度に見たまま、俊輔は凍ったように動かない。
永山は続ける。
「もう分かっているよな ―― そう、駿河会初代会長、駿河俊太郎の威光を借りる。お前のその、父親譲りの顔を最大限かつあざとい位に使って、組織を纏め直すんだ」