18 : 幸せへの願い
稜の父親の容態が急変したのは、稜がその病床に付き添うようになってから、ちょうど1週間後のことだった。
その頃、父親の容態は安定していた為、臨終を確認した担当医は“想定外のことだった”と、稜に向かって言った。
それを聞いた稜は、どうしようもなく心が冷えてゆくのを感じずにはいられなかった ―― 稜の父はとても優しく、穏やかな人であったが、その反面、曲がったことや矛盾したことを嫌う、頑固な一面も併せ持っていた。
稜が着くのを待っていたかのように息を引き取ったのは、こじつけにも似た理由として父の元へやって来た息子の行為を、嫌ってのことではないのか・・・ ――――
考えすぎかもしれない。
自らに後ろめたい想いがあるせいで、そんな風に思うのかもしれない。
けれど自分の行為に忸怩たる思いを抱いていた稜は、そこから派生する自己嫌悪を消すことが、どうしても出来なかった。
「稜、大丈夫なの?なんだかずいぶん、顔色が悪いわ」
父の葬儀やそれに付随する細々とした問題を片付けた後、挨拶に出向いた稜を見て、伯母が言った。
「大丈夫ですよ」
心配そうに眉を顰める伯母に微笑んで見せながら、稜は言った。
「父のことに関しては、伯母さんにご負担をおかけしたうえ、最後まで色々と心を砕いていただいて・・・本当に、ありがとうございました」
「やめてちょうだい稜、顔を上げて」
丁寧に深く頭を下げた稜の肩を押し上げるようにして顔を上げさせながら、伯母は言った。
「弟は生前、“子供は親に負担をかけるものだが、親は決して子供の負担となってはならない”と、よく言っていたものよ。
私はその弟の意志を汲んだだけ。稜にお礼を言われたり、頭を下げられたりすることではないわ」
きっぱりとした伯母の口調に稜はただ、ありがとうございます。と繰り返すしかなかった。
伯母は答えず、黙って首を横に振った。
「ああ、そうだわ。稜の会社の上司の方・・・相良さんとおっしゃったかしら」
その後ざっと自分の近況を報告し(稜の父の容態が急変したため、そういうことを話す余裕が、これまで全くなかったのだ)、度々連絡をするという約束をした稜が伯母の家を後にしようとした時、伯母がふいに訊いた。
「・・・ええ」
軽い緊張を覚えながら、稜は頷く。
「あの方に、私からもお礼を言っておいてちょうだい。葬儀の手筈を整えてもらったり、色々と手伝ってもらったり・・・本当にお世話になったから」
そう、覚悟はしていたものの、唐突な父の死に呆然とするしかなかった稜やその親族に代わり、手早く葬儀関連の手配をしたのは、“稜の会社の上司”という触れ込みでその場にいた、相良伊織であったのだ。
相良に言わせれば、“こちらに急がなければならない理由があっただけです”と、いうことになる。
実際に稜は面と向かって、そう言われた。
だが稜はその冷たく突き放した言い様を、怒る気になれなかった。
葬儀の前から、そしてその後もずっと、彼が稜に対してだけでなく親族にも細やかに気を遣ってくれていたのを、稜は知っていたのだ。
むろんそれを、伯母も見ていたに違いなかった。
「分かりました。伝えておきます」
「お願いね。
それと今後、度々連絡するのだけは、絶対に忘れないで」
しつこいようだけれど。と前置きをしながら何度目になるか分からないその約束の言葉を、伯母は繰り返す。
笑いながら頷く稜を、伯母は暫し優しげな目で見つめていたが、最後、
「あと、これは大きなお世話だろうけれど ―― 早くいい人を見つけて結婚なさい。
稜には幸せになってもらいたいわ。家族みんなの分もね」
と、しみじみとした口調で、祈るように、言った。
稜を見送る伯母の姿が曲がり角の向こうに見えなくなったのを見計らったかのように、シルバーのマツダ・アテンザがどこからともなくやって来て停車した。
稜は黙ってその助手席に乗り込み、運転席にいた相良も黙って車を発進させる。
「・・・どこへ行くんですか」
5分ほど経ってから、稜が訊く。
車は神戸に来たとき、最初に仮住まいをするために借りていたホテルとは、逆方向に向かっていたのだ。
「とりあえず、まだ神戸からは出ません」
前方車のテール・ランプを睨むように見ながら、相良が答える。
「あまり性急に動くと、却って目立って危険ですので」
「危険って・・・何か、そういう節があるんですか」
「・・・いいえ。
ただ、用心するに越したことはありませんから」
相良の声音から、彼が100%真実を言っていないと、稜は直感した。
が、稜はそれ以上訊こうとしなかった。
この2週間弱、相良の自分に対する対応を見ていて、稜は最初に抱いていた危惧 ―― 相良が俊輔に連絡をとるのではないか、というような ―― を一旦手放そうと考えていた。
もちろん、全幅の信頼を置くほど相良を信用することは、今は出来ない。
けれど連絡をして俊輔なり他の幹部なりを呼び寄せるつもりであれば、相良はとっくにそうしているはずなのだ。
あれほど俊輔に忠誠を尽くしていた相良が、それをしようとしない理由。
そして彼が最初に言っていた、“稜に万一のことがあったら、俊輔の全てがそこで終る”という言葉の意味。
それらをきちんと見届けてみようと、稜は思っていた。
その課程で、自分の俊輔に対する想いが整理出来るかもしれないし、とも。
その後、相良は無言で15分ほど車を走らせ、とある住宅街の中程にあるウィークリー・マンション前に車を停めた。
相良に案内されて向かった部屋は、マンション最上階にある角部屋だった。
相良は手にしていた荷物を部屋に入れ、稜を玄関口に立たせたまま部屋中をくまなく丁寧に点検し、それから稜を部屋に入れた。
「しばらく、こちらにお住まいください。
食料や日用品など、必要なものは買っておきましたので、ご自由にお使い下さい」
「・・・相良さんは?」
「2人で一緒にいると目立ちますので、私は別のところにいます。
志筑さん近辺の警戒は油断なく続けますので、ご心配なく」
「・・・はぁ・・・」
「極力外には出ないようにして下さい。どうしてもという場合は、帽子とサングラスで顔を隠すようにして下さい。
ここへの出入りの際は、特にご注意を」
外の様子を確認してから丁寧にカーテンを閉めきり、相良が言う。
「こちらへは定期的に顔を出しますので、必要なものなどありましたら、ご連絡を下さればお持ちします」
当たり前のことのように相良は言ったが、稜は聞いていて気が遠くなる思いがする。
これでは殆ど軟禁生活というのに等しいではないか。
「・・・こんなことが、ずっと続くんですか?」
と、稜は訊いた。
「しばらくは」
と、相良は答えた。
「しばらくというのは、どの位の間の話なのですか?」
と、稜が訊いた。
「当分の間、ということです」
と、相良が答えた。
実に素晴らしい答えだよな、と稜は思う ―― 想像の余地に満ち満ちている。
それ以上稜が何も訊こうとしなかったので、相良は一礼の後に部屋を出ていった。
相良の足音が聞こえなくなったのを確認してから稜はドア・ロックを下ろし、それから深い深い、ため息をついた。