Night Tripper

19 : 同族の気配

 部屋に一人取り残された稜はまず最初に、ひとつひとつの部屋を見て回った。
 そこは6畳ほどの部屋が2つとリビング・ダイニング、ユニットではあるが独立したバス・ルームにトイレと洗面所がついた、なかなか立派なマンションだった。

 全ての部屋を確認してから、稜は手にしていた荷物を2つの部屋のうち、日当たりが良さそうな方の部屋に入れ、それから相良が運んできてくれた荷物の中身を確認した。
 見ていて随分大きな荷物だと思ったが、それもそのはずで、中には実に様々なものが入っていた。

 食料品、衣類、雑貨、各種日用品、必要最低限の薬、簡単な調理器具、食器・・・呆れたことに、音楽CDや文庫本まで入っている。
 全く、用意周到というか、凄すぎる。

 稜はまず荷物の中から食料品を取り出し、調味料の類をキッチンの棚に、野菜類のうち、葉ものの野菜を備え付けの冷蔵庫の野菜室に、冷凍出来る野菜は下処理後小分けにして冷凍庫に、牛乳やらチーズやら卵やらを冷蔵室に、トレイから出して新しくラップに包み直した肉や魚を冷凍室に、それぞれ仕舞った。
 食器や調理道具は洗って食器棚に入れ、衣類を自室にした方の部屋のクロゼットに入れ、日用品や雑貨の類をそれぞれあるべきところに入れて回った。
 本やCDはリビングの棚に置いた。

 この部屋に稜が来たのは午後2時すぎだったが、全て片づけ終えた時には日が暮れていた。たっぷり4時間近くかかったことになる。
 だが驚くべきは相良がこれだけのものをたった一人で、稜が伯母に挨拶をしていた1、2時間の間に買い揃えたということであった。

 つくづくと、良く分からない男だ。
 そう思いながら稜はそっと窓辺に近付き、カーテンの隙間から外を覗いてみる。

 マンション前はゆったりとした2車線の道路になっており、その向こうに小さな公園があった。
 公園内にも見える限りの道路の上にも人影はなく、時折思い出したようにそこを車が通り抜けてゆく。

 暫くそんな風景を眺めてから、稜は相良がやっていたのと同じように丁寧にカーテンを締め、キッチンに戻って鍋に湯を沸かした。
 パスタを茹でている間に玉葱と人参と挽き肉とトマトの缶詰を使ってミート・ソースを作り、リビングに運んで食べた。
 セロリとベイリーフとナツメッグがなかったので微妙に間の抜けた味だったが、この状態で完璧なスパゲティ・ポロネーズなど求める方が間違っているのだ。

 だから稜は黙々とスパゲティを食べて後片づけをし、キッチンを元通り綺麗にしてからシャワーを浴びた。
 濡れた髪を拭きつつ再びマンション前の道路を見てみたが、先程と同様、公園にも道路にも人影はなかった。今度は車さえ通らなかった。
 10分ほど待ってみてから諦めた稜はリビングのソファに戻り、ミート・ソースを作る途中で使った赤ワインの残りを飲んだ。

 辺りは酷く静かだった。
 一人暮らしの経験がそれなりにある稜であったが、こんなに一人きりという気がするのは初めてだった。

 沈黙に耐えきれずにテレビをつけてみたが、中の人たちの言っていることや笑っていることが全く掴めず、すぐに消した。
 備え付けのオーディオ・セットのFM放送をつけてみたが、待ちかまえていたかのようにボノが闇に沈み行く赤い丘の街について歌い出したので、それもすぐに消してしまった。
 父から息子へ、血は殆ど流れなかった。灯の消えて行く赤い丘の街で、しがみつくものは ―― などという歌詞の歌を、聞いていられるものではない。

 稜は力なく息を吐き、ワインの残りを飲み干してから、ベッドに入って眠った。

 それから数ヶ月が無為のままに過ぎた。

 稜は毎朝7時に起き、東京で通っていたジムのインストラクターが教えてくれた短時間で効果があるというストレッチをし、シャワーを浴び、簡単な食事を作って食べた。
 昼間は仕事の依頼が入っていればそれに対応し、入っていなければ音楽を聴いたり、本を読んだりして過ごした。
 夜は暇に任せて色々な食事を作って食べ、その後は大体ワインかウィスキーを飲んで眠った。

 相良に言われるまま、1ヶ月から最長で2ヶ月おきに居場所を変えながら、そういう生活が繰り返されてゆく。

 特別なことは何ひとつ起こらなかった。
 1ヶ月に2度ほど稜の前に姿を現す相良も相変わらず、必要最低限のことしか言わなかった。
 稜も何も聞かなかった ―― 相良伊織という男の性質は野生動物のそれに近く、焦ってみても仕方がない(というか焦れば焦るだけ却って逆効果であろう)と感じていたのだ。

 ただその中で唯一、特筆すべき例外的な出来事もあった。

 それは引っ越しのサイクルを4回ほど繰り返した後の、ある夜のことだった。

 その夜、唐突に目を覚ました稜は ―― 何故だろう、部屋に色濃い俊輔の気配を感じて暗闇の中で息を呑む。

 夢の続きだろうかと、幾度かまばたきを繰り返したり深呼吸してみたりしたが、部屋にたゆたう気配は余りにも強く、それは夢などでは有り得なかった。

 しばらく息を潜めて辺りの気配を伺ってから稜はゆっくりと身体を起こし、部屋のドアを細く開けた。
 リビングにはいつの間にやって来たのか相良がおり、食い入るようにテレビ画面を見詰めていた。
 音声が限界まで絞られていてキャスターの言葉は殆ど聞こえなかったが、時折切れ切れに“暴力団”“闘争に発展する可能性”“予断を許さない状況”などという単語が聞こえた。

 稜は開けた扉をいったん閉め、再びわざと音を立てながら部屋を出た。
 そしてゆっくりと相良に近付いてゆき、彼が座っているソファの反対側の端に腰を下ろす。

 そして訊く、「東京で、何かあったんですか?」

 稜が部屋を出てやって来るのを視線で追っていた相良は、小さく首を横に振る。

「分かりません ―― 我々に関する報道の殆どが、真実とは程遠い場合が多いので」
「・・・でも、何かあったらしいのは、確かなんですね?」
 稜は訊いたが、相良は分かりません。と繰り返し、話題の変わってしまったテレビの電源を切った。

 沈黙があった。

 流れる長い沈黙の中、言おうか言うまいか悩みに悩んでから、稜はきっぱりと顔を上げる。

「俊輔の元に、戻りたいのではありませんか」
「いいえ。私はあなたの側にいることを決めた」

 相良は平坦な声で答えたが、その返答の仕方は早すぎたし、声音は硬すぎた。

「・・・一生、俊輔に会えなくても?」
「あなたを失えば、あの方は終りだ。それを阻止する為なら、私はなんでもする。それに・・・」
「・・・それに?」
「もし今後、私があの方に再び会うことがあったら ―― そのときのことはもう、決めている」

 きっぱりと相良は言い、稜はそんな相良の両目をじっと覗き込む。
 そして静かに訊ねる、「あなたが俊輔のためにそこまでするのは、部下としての使命感ですか?それとも“家族”だからですか?」

 稜のその問いかけを聞き、今度は相良が黙り込む番だった。

 口をつぐんだ相良はやがて、ゆっくりと目を閉じる。
 その口元には微かではあったが、笑いの澱のようなものが浮かんでいた。

「あなたには適わない」
 目を閉じたまま相良は言い、目を開けた。
 そして首を回して、真っ直ぐに稜を見た。
「 ―― そろそろ休んで下さい。
 明日にはまた、場所を移って頂きますので」

 相良と視線を合わせたまま稜は小さく頷き、立ち上がって部屋に戻った。
 到底眠れないだろうと思っていたのだが、眠りは稜が枕に右側の耳をつけるのと同時くらいに訪れた。

 そして、稜は夢を見た。
 とても嫌な ―― 思い出そうとするのも躊躇うくらい、酷く嫌な夢だった。