20 : 帰京
そろそろ復職出来ないだろうか、というメールが上司の石田一也から届いたのは、稜が休職してから10ヶ月が過ぎた頃だった。
父が亡くなって半年以上が経過しているのだから、当然といえば当然の話だった。
むしろ稜の父親の死を知らせた上でここまで休職期間を引き延ばしてくれたことのほうが、有り得ないことと言えるだろう。
反対されるに違いないと思いつつ、復職の打診を受けたことを相談してみると、相良は思ったよりもあっさりと首を縦に振った。
意外だと言わんばかりに稜が驚くのを見て相良は肩をすくめ、
「そろそろそういう話が出てもおかしくないと、思っていましたから」
と、あっさりと言った。
「それで、やはり本社勤めになるのですか?」
「実はその点でも悩んでいるんです。
強く望めば本社にも戻れるらしいのですが、出向してもらえないかという話も出ていて」
「出向先はどちらになるのですか?」
「茨城です。つくば市に関連子会社が出来たらしくて」
「茨城・・・」
相良は呟き、微かに眉を寄せて何事かを考えている様子だった。
しかしそれはほんの少しの間のことで、すぐに相良は表情を元に戻す。
「それで、志筑さんはどちらを希望なさるおつもりですか?」
「希望としては、茨城の方へ行きたいと思っています ―― ばったりと俊輔に会ってしまうには、まだ時期が早すぎるように思いますし・・・。
もちろん、それで問題がなければ、という話ですが」
膝の上に置いた手の指を丁寧に組み直しながら、稜は答えた。
「・・・問題?」、と相良は繰り返す、「問題とは、何です?」
「ええと、相良さんから見て、ということです」、と稜は言う、「木は森に隠せと言う通り、都心にいた方がいいのかと思って」
稜の言葉を聞いた相良は、無造作に肩を上げてみせる。
「どちらにせよ、首都圏に戻るのであれば見咎められる確率は跳ね上がります。
しかしまぁ、あなたがお勤めの会社は赤坂の本社や辻村組の本拠地である六本木に近すぎますからね。そこをうろちょろされるよりは、茨城のほうが多少はマシかもしれません」
うろちょろって、何だよそれ・・・俺は仕事をしてるんだよ・・・。と稜は思ったが、口には出さなかった。
この10ヶ月の付き合いで、相良がわざとそういう言い方をしている訳ではないらしいということくらいは、分かるようになっていた。
取捨選択する言葉の悉くを決定的に取り違えているだけで、本人に悪気はないのだ ―― たぶん。
「ただ、一度は虎ノ門の本社の方に行かなければなりません。挨拶をする程度なので、それほど長い時間ではありませんが」
「復職の時期はいつ頃になりそうなのですか?」
「来月、2月の初頭くらいでどうかと言われています。
しかし1ヶ月ほどでしたら、ずらすことは可能だと思います」
「そうですか、分かりました。
それでは来月1日からということで、調整します」
稜は礼を言い、相良は表情を変えることなく首を横に振った。
その後、様々な事情により、稜が相良の言うところの“首都圏”に戻ったのは、3月初旬のとある午後のことだった。
東京駅に降り立った稜は、何となく感慨深い気分で辺りを見回す。
たった1年ばかり離れていただけなのだが、やはり懐かしいような気がした。
そして新幹線からちらりと見えた、開花しかけた桜。
それがどこか息苦しいような、焦燥にも似た感覚を、稜に与えるのだ。
そう、ちょうど去年の今頃だった。
駿河会本家にある桜並木を見ながら、俊輔は言ったのだ ―― お前と一緒になら、あの桜を見てみるのもいいかもしれない。
呟いた俊輔の目の色と、低く低く、突風に吹かれて掠れたような声で呟かれた、独白めいた台詞。
そこには明らかに、一日の終りに美しい夕焼けを見て訳もなく切なく苦しくなる瞬間の、慟哭の気配があった。
あの時は気付けなかったが、今なら分かる。そう、今なら。
もしもあの時、俊輔の抱えていたなにものかに気付いて、それを理解する努力をしていたら、何かが変わったのだろうか。
それとも例え何を気付いたとしても、結局何ひとつ変わらなかっただろうか・・・ ――――
そこまで考えたところで、稜は小さく苦笑する。
今更こんなことを考えてみたところで、意味などない。
過去の出来事をたられば論でひねくり回してみても、得るものはなく、ただただ虚しいだけだ。
稜が俊輔の元を去ってから、1年近くが経過している。
確認はしていないが、恐らく既に俊輔は駿河菖蒲と結婚しているだろう。
全てはもう、終わったことなのだ。
円は綺麗に閉じられ、完結している。
今更何を考えようと、もう遅すぎるのだ。
稜はため息をつき、左手に持っていた荷物を右手に持ち替え、改修工事中の東京駅南口を出て通りを渡る。
一足先に東京に戻っている相良が、車を回してくれる手筈になっていた。
待ち合わせの場所まで歩いてゆき、足を止める。
腕を上げて時計を確認すると、約束の時間より15分ほど早かった。
とはいえ、相良はいつも時間よりも早目に姿を現すのが常だったので、そう待つことはないだろう・・・。
そう考えて上げた手を下ろした稜に、
「・・・あの、すみません」
と、横合いから声がかかる。
かけられた声の方向を見ると、道路脇に停まった白いトヨタ・クラウンの運転席から、男が顔を出していた。
「はい?」
俊輔のことを思い出して少々感傷的になっていた稜は余り深く考えず、呼びかけに応じた。
「道に迷ってしまって・・・ここへは、どう行けばいいんでしょうか?」
言いながら、男はA4ほどの大きさの紙を広げた。
つり込まれるように稜がサングラスを引きおろして広げられた紙を覗き込もうとしたのと、相良の声が怒鳴るように稜の名を呼んだのと、トヨタ・クラウンの後部座席が開き、そこから出てきた男が稜の腕を掴んで電光石火の勢いで車に引きずり込んだのは、殆ど同時だった。
まさに瞬きする間に起きた出来事で、周りにいた通行人の誰もが目の錯覚かと思って声も上げられないような、それは一瞬の出来事であった。
トヨタ・クラウンの後部座席の扉が閉められ、走ってきた相良がそのトランクに叩きつけるように両手をつく。
だがむろん、相良一人の力で車が引き留められる訳もなく、車はタイヤがアスファルトをこするヒステリックな音と共に走り去って行く。
車影が遠ざかって行くのを、相良は数瞬の間、紙のような顔色で見送っていた。
が、すぐに気を取り直すように強く唇を噛み、足早に自らの車に駆け戻りつつ懐から携帯電話を掴み出した、その時。
「伊織くん・・・?」
と、声をかけられ、鋭い動作で振り返った相良は ――――
「・・・先生・・・」
と、一言呻くように呟き、ぐしゃりと顔を歪めて絶句する。
行き過ぎる雑踏の中、心底驚いた顔をして相良を見ていたのは、道明寺医院の院長、道明寺だった。