21 : 復讐の完結
「伊織くん、君、いままで一体どこでどうしていたんだ?志筑さんは一緒なんだろう?
君たちが姿を消してから、組の方は大変な騒ぎに・・・」
「先生、今は細かいことを説明している暇がありません ―― 志筑さんが攫われた」
道明寺の腕を強く掴んでその言葉を遮り、相良は言った。
「何だって?」
と、道明寺が顔を歪める。
「志筑さんを乗せた車はここから大手町方面に向かいました。これがその車の車種とナンバーです ―― と言いながら、相良は胸ポケットから取り出した紙に車種とナンバーを走り書き、道明寺に渡した ―― 車のナンバーを調べないと確かなことは言えませんが、志筑さんを車に引き込んだ男、あれは駿河麗子の腹心の部下だったように見えました。
すみませんが先生、あの方に連絡をとって状況を伝え、出来る限りの人員を集めておいて貰って下さい。行き先が判明次第連絡しますので、どこにでもすぐに動けるように、と」
つんのめるような口調でそう言った相良は、足早に自らの車へと戻る。
その相良の後を、道明寺が慌てて追いかける。
「おい、それで、君はどこへ行く気だ」
「車のトランクの隙間に発信機を放り込みましたので、それを追って行き先を突き止めます」
「 ―――― ・・・・・・。
分かった。しかし・・・伊織くん、くれぐれも気をつけろよ。一人で無茶はするな。いいな」
言いたいことの全てを込めるような言い方で、道明寺は言った。
そんな道明寺を、相良は運転席のドアに手をかけたまま見た。
そして、微かに笑う。
「この1年、ご心労をおかけして申し訳なかったと、あの方に伝えて下さい」
相良は言い、道明寺が止める間もなく車に乗り込む。
走り去る相良の車が大手町方面へ向かって走り去って行くのを険しい表情で見送ってから、道明寺は胸ポケットから取り出した携帯電話を操作し、耳に押し当てた。
通行人も何が起こったのか分からなかっただろうが、稜も自分に何が起こったのか、一瞬全く分からなかった。
車の前方にメトロポリタン・ホテルが見えてきたところで、稜はようやく自分が異常に異常な ―― 日本語が変だが、まさにそういう感じだ ―― 状況に陥っていることに気付く。
一体これはどういうことなのかと稜が声を上げようとした時、稜の左隣に座っていた人物が首を曲げ、
「久しぶりね、志筑さん」
と言い、サングラスを外して唇の両端をあげて笑うようにした。
駿河麗子だった。
「驚くわよね、当然だわ」
何も言わない(言えない)稜に向かって、笑ったまま、麗子は言った。
確かに稜は驚いていた。
だがその驚きは自分を誘拐のようなやり方で車に乗せたのが麗子であったという事実ではなく(それだってもちろんあるが)、当の麗子が以前会った時とは別人のようになっていたからであった。
気の強い内面を表すようにきつい顔をした女性ではあったものの、2年ほど前に見た駿河麗子はとても美しい女性だった。
だが今の彼女は、“美しい”という形容には到底当てはまらないだろう。
ふっくらとしていた彼女の頬は、まるでアイスクリーム・ディッシャーで抉り取ったかようにこけてしまっている。
顔だけではない。誇張一切なしで、身体が全体的に1/3ほどに細くなり、顔色は土気色だった。
こういう雰囲気の痩せ方に、稜は見覚えがあった。
乳癌が肺と骨に転移し、末期に差し掛かった頃の姉の姿 ―― 目の前で微笑む駿河麗子の姿は忘れようとしても忘れられない、死の間際の姉のそれにそっくりだったのだ。
無言でいる稜の心中を的確に悟ったのであろう、麗子は笑い、
「胃癌よ。肺への転移が確認されていて、医者には余命1ヶ月と言われた。それが、2週間前」
と、言った。そして咳込んだ。
咳はそれから、長い間続いた。
その咳には、肺に上手く空気が入っていかない時の、独特のひゅうひゅうというような音が混ざっていた。
死の気配が、麗子の咳込む時間に平行して、車内を色濃く満たして行く。
「・・・それで、私に何のご用ですか」
麗子の咳が収まったのを見計らい、稜は訊いた。
「用・・・そうね、用と言えば用かもしれないわね」
稜の右隣に座る男が差し出したエヴィアン水を飲み、深呼吸してから、麗子は答えた。
「悪いけれどあなたには死んでもらうことになるわ。今日、これから ―― 私よりも先にね」
何ということはない、といった口調で、麗子は言った。
それを聞いた稜は、背筋に何か冷たいものを滑り落とされたような感覚を覚える。
稜が何も言わなかったので、麗子が続ける。
「あなたに恨みは何もないわ。むしろ私はあなたのことを気に入ってすらいる、でも ―― あの母子に関わったことが運の尽きね」
「・・・何故、こうまでして・・・」
小さな声で、稜が言った。
「そうね、分からないでしょうね。あなたのような人には」
と、麗子は言い、きっぱりと顔を上げた。
「駿河に嫁ぐことを決められたとき、私だって若かった。それなりの希望も期待もあったわ。でも夫となった人には他に愛する人がいた ―― よくある話よ。
それでも子供が産まれれば落ち着くだろうとみんな言ったし、私もそうだろうと・・・そうだったらいいと願ったわ。
けれど結果は ―― 夫は私の産んだ子供をろくに見ようとも、抱こうともせず、更にあの忌々しい子供みたいな女に傾倒していった。しかもその女の産んだ子供は夫にうり二つで ―― 夫を嫌った私の子供たちは、今では家に寄り付きもしない。
私はねぇ、志筑さん。その女も、その女の産んだ子供も、大嫌い。大嫌いなの」
そこまで言ったところで、再び麗子が咳込み始める。
ひゅうひゅうという音と、苦しげな呻き声が、静かな車内に響く。
助手席に座っていた男が、小さな錠剤を2粒、麗子に渡した。
麗子はそれを咳の合間に無理矢理喉奥に流し込み、何度か噎せるように咳込んでから口元をハンカチで拭い、苦しげな呼吸を繰り返す。
そんな駿河麗子を間近に見る稜の胸に、微かな痛みが生じた。
細い針をゆっくりと差し込まれるような、微かな痛み。
それは駿河麗子という女性に対する同情から派生するものだったかもしれないが、稜は即座にそれを否定する。
以前見せられた俊輔に対する彼女の仕打ち。
1度あれを見ただけでも、麗子が俊輔母子にどういうことをしてきたか、一目瞭然だ。
それに加えて今の自分の置かれている状況 ―― どんな話を聞かされようと、麗子に同情する余地などがあるはずもなかった。
「それで私を殺そうというのですか」
と、稜は言った。
「今更そんなことをしても、虚しいだけではありませんか。何の意味もない」
「意味ならあるわ。
これまでずっと中途半端なまま終っていた復讐が、あなたを殺すことで完結させられるのよ ―― 長かったわ・・・ここまで・・・」
そう言った麗子は疲れきった様子で、しかしどことなく満足げに、目を閉じた。