Night Tripper

22 : 崩壊の気配

「私を殺したところで、復讐は完結などしない。
 例の一件で、俊輔の周りの警戒は一層厳重になっている。あなたはもう、俊輔に手出しは出来ないでしょう」
 流れる沈黙を破って、稜は言った。

「ええそうね。でもそれでいいの ―― それがいいのよ」
 ゆっくりと目を開けて、麗子が言った。
 そして麗子の返答を聞いて訝しげな顔をする稜を見て、声を出さずに笑う。

「 ―― 実を言うと、私はずっと後悔していたのよ」
「後悔?」、と稜が言う。
「ええ」、と麗子が頷く。
「・・・何を?」
 と、稜は聞いた。
「最初に会ったとき、思い切ってあなたを殺してしまわなかったことを、よ」
 と、麗子は答えた。

 稜は黙り込み、麗子は口元に笑みを浮かべたまま、続ける。

「あのときに思い切ってあなたを殺していれば、復讐は終わっていたのに」
「・・・何を言っているのか、さっぱり分からない」
 と、稜は言った。
「そう、今にして思えば、あなたのその自覚のなさが私を惑わせたのね。
 あなたが俊輔にとってどういう存在なのか、はっきりとしたことが掴み切れなかった」
 麗子は言い、遠い目をして前方に目を向けた。
「 ―― 今から十数年前になるわ。逃げ回っていたあの母子の居場所を突き止めて攫わせたの、今日のようにね。
 俊輔はぎりぎりのところで奪い返されてしまったけれど、あの女の身柄だけは押さえることが出来た」

 その時点で話の方向性を見定め、非難するような視線を送ってくる稜を、麗子は細めた目で見やる。

「殺してはいないわよ。でもまぁ、殺してしまおうとしたところを救い出されて、その後意識を取り戻さずに数日で死んだというから、同じようなものかしらね。
 元々そう身体の強い女じゃなかったし、あの暴行と陵辱に3日持ち堪えただけでも驚きだと・・・もっと早くくたばると思っていたと、金山も言っていたわ」

 笑いながら麗子は言い、稜はその横顔から顔を背ける。
 とてもまともに聞いていられる話ではなかった。
 両手が拘束されていなければ、耳を塞がずにはいられなかっただろう。

 俊輔が学生時代、何故ああも神経症的に母親の近辺を気にしていたのか。
 その理由を稜はこの時、ようやく知った。

 そしてそうまでして大切に守っていた母親のそんな状態を見た俊輔が、どれほどのショックを受けたか、どんなに苦しんだか ―― 想像も出来なかった。
 さわりを考えてみただけで、ぐしゃりと心臓が握り潰されるような激しい息苦しさを感じた。

「母親のその姿と、その死を目の当たりにした俊輔は、ショックのあまり1週間以上ろくにものも食べられず、一時は話すことすら出来なくなったと聞いたわ ―― それでも俊輔は何とか立ち直った。見てのとおりにね、でも」
 そこで一旦言葉を切った麗子は、顔を歪めて上半身を折るようにしている稜の耳元に唇を寄せ、囁くように続ける。
「でも、何を賭けてもいい。俊輔はあれに、2度とは耐えられない」

 それを聞いた稜が愕然として顔を上げ、その稜を間近に見た麗子は心底楽しそうにくすくすと笑った。

「暴行され、陵辱させた後のあなたの死体は、綺麗に梱包して俊輔に送り届けてあげる。
 あの忌々しい女の息子は、私が手を下すまでもなく内側からじわじわと死んで行くのよ ―― こんなに完璧で最高な復讐の形はないわ、ねぇ、そう思わない?」

「・・・あなたは気が狂ってるんだ」、と稜は言った。
「そうね、きっとね」、と麗子は言った。

 一定の速度で走っていた車が、そこでふいに減速した。
 車窓から外を見るとそこはどこかの私鉄の高架下にある、寂れた倉庫街だった。

 車は倉庫の間を縫うように進んで行き、やがて一番奥にある大きな倉庫の前で停車する。
 有無を言わさず車から引き下ろされ、連れて行かれた倉庫内には30人強の男たちがいた。
 男に左右の腕を掴まれ、引き摺られるように入ってきた稜に、男たちの視線が一斉に注がれる。

「いい医者がいると聞いて無茶して連れて来てやったっちゅうのに・・・こない勝手なことされちゃ困るで」
 男たちの中央に立っていた恰幅のいい初老の男が、麗子を見て苦々しげに言った。
「ごめんなさい、兄さん。
 でも偶然この子が一人でいるのを見つけて ―― これ以上のチャンスはないと思って」
 と、麗子が言った。

 兄さん、と呼びかけられた男は、ったく、しゃあないな。と呟いて肩を竦め、稜に視線を移す。

「で、こいつが例の?」
「ええ、そうよ」
「・・・ふぅん。噂通りのええ男やな、ほんま」
 と、唇の右端だけをあげて笑った男が、ゆっくりと歩いてきて、稜を見下ろす。
「わしは國竜会の和田ちゅうもんや。以後お見知り置きを・・・ちゅうてもまぁ、短い間の話やけどな」

 そう言って和田が笑ったのに合わせて、周りにいる男たちもさざめくように笑った。

「で、誰かに見られたか?」
 表情を改めた和田が、麗子に訊く。
「伊織にだけ。出来ればあの子も一緒に連れてきたかったのだけれど」
 と、麗子が答え、和田は首を横に振る。
「二兎を追うものは一兎をも得ずや、あれのことはもう諦めろ」
「ええ、だからそのまま来たのよ ―― 急がないと、また永山や三枝に居場所を突き止められてしまうもの。あんな悔しい思いを、3度も経験したくないわ」
 と、麗子は眉間に皺を寄せて言った。
「とにかく暴行されて殺されたということが俊輔に分かればいい。だから1、2時間で片をつけて」
「言われんでも分かっとるわ、こっちもここでゆっくりしとる訳にいかんしな ―― あとな、お前はとにかくすぐ病院に行っとけ」
「でも・・・」
「お前はこの男 ―― と言って、和田は稜を顎で指した ―― が暴行されんのを見たいのとちゃうやろ。だったらまずお前は病院や」

 きっぱりと、しかしどこか妹を気遣うような口調で和田は言った。
 麗子はそれ以上逆らわずに頷き、稜に向き直る。

「お別れね、志筑さん。恨まないで ―― と言っても無理でしょうけれど」
 と、麗子は言った。
「・・・こんなことをしても、意味なんかない。私が死んでも、俊輔は何も変わらない」
 と、稜は言った。

 だが稜は、自分の言葉に全く力がないことを自覚していた。
 自分の存在が俊輔にとって、その精神の均衡や生死までをも左右する影響力があるという明確な自覚は、未だに持ててはいない。
 だが相良や麗子の言動を目の当たりにした上で、影響力がまるでないと自信を持って言い切ることは、とても出来なかった。

 むろんそれを察しているのだろう、麗子は意味深長に笑い ―― そのまま二度と振り返ることなく、倉庫を後にした。